第十九章:さりしもの ―葉月― 其の七
「あの子猫はさよに一番懐いていたからね。さよが出ていったのを察して、脱走してしまったのかもしれない」
橘はただただ、驚くばかりだった。冷静に分析している場合でも、呑気に祭りに参加している場合でもないだろうと思って。
しかし奏一郎は、どこ吹く風。
「見つけようにも、この人だかりだからね。それに心配しなくても、ひょっこり戻ってくるかもしれないし……。まあ、僕も目を光らせておくけれど。ここは迷子センターなんだろう? もし見かけたら、保護してくれると嬉しいな」
「迷子センターの意味を履き違えてるぞ……」
「おや。そうなのかい?」
相変わらずの浮き世離れ。イチから説明するのも面倒だ。
「ったく……わかった。見かけたら保護しておいてやる」
「ふふ、ありがとう。そう言ってくれると思っていたよ」
頼りにされているのだか、いいように利用されているのだか……橘はひとつ、大きな溜め息を吐いた。
「それじゃ、さよのこと迎えに行ってくるから。また後でね」
人の群れに混じる奏一郎。
ふっとこちらを振り返り、口を開いたのが橘には見えた。
人混みのなか。喧騒のなか。辺りも暗くなってきて、視界も心許ない。
それなのに、
「ちゃんと、見つけてくれよ?」
雑踏に霞むはずの声が、闇に溶けるはずの笑みが、はっきり脳裏に焼き付いた。
「…………迷子センターの意味、やっぱりわかってないじゃないか……」
弱々しいツッコミ。嫌な予感が邪魔をして。
* * *
「静音ちゃん、お腹壊しちゃうよ?」
小夜子がそう声をかけるも、静音は豪遊をやめようとはしなかった。
彼女の胃袋にはすでに、お好み焼きにたこ焼き。焼きそばにトウモロコシまで入っている。それなのにこれから今まさに、牛串まで腹に収めようというのだから顔面蒼白ものだ。
「だって今日は後悔しないように美味しいもの食べ尽くしたいもーん。小夜子こそ、たこ焼き半分とあんず飴だけでよく足りるね?」
「そ、それは……うん、もうちょっと我慢しておこうかなって」
これから奏一郎と二人きりになったとして、満腹でなにも食べられない、では会話が持ちそうにない。本当は少しだけ空腹だけれど、そこは耐えるのみだ。
「だいぶ引換券もたまったし、いったん恭兄のとこ戻る?」
「そうだね、そうしよっか」
牛串一本、ほとんど丸呑み。静音の豪快な食べっぷりに感嘆しつつ、再び橘たちのところへ戻ることに。
歩を進める度に人波は増えていく。橘たちのところへ舞い戻ってきた頃には、空はすっかり暗くなっていた。
「え。奏一郎さん、来てたんですか?」
「迎えに行くって言ってたけど……。入れ違いかな?」
桐谷が綿飴を片手に、この人の多さなら仕方ないね、と慰めてくれた。
「ここで待機しておいたほうがいいかもよ……?」
「そうですね……」
そんな会話の最中にも、静音がヨーヨー釣りに取り掛かっているが、ぶつん。途中でこよりが切れてしまった。
「あー、もう! 私、こういう細々とした作業嫌いー!」
どうやら諦めてしまったらしい。
「細工してあるでしょ。切れやすいように」
「んなわけないだろ! 変な言いがかりは止せ!」
テンションが高いせいか、今日の静音は橘への当たりが強い。
「よーし、私も挑戦してみようかな」
「あ、じゃあ私はベビーカステラ買ってくる〜!」
元気に去っていく黄色の浴衣。
こよりを渡してくれたのは、橘だった。
ベビープールに浮かぶヨーヨーに、狙いを定めて……。小さな水しぶきが、パチャリと音を立てる。
「えへへ。一気に二つ取れちゃいました」
「……意外と器用なんだな」
「『意外と』って……いえ、その反応が正しいですよね……。ひとつは静音ちゃんにあげようかなぁ」
ゆらゆら、ゆらゆら。祭囃子と太鼓の音が、水風船から伝わってくる。
「まあ、それくらいの手先の器用さがあったほうがいいんだろうな。進路は調理関係なんだろ?」
「あ、はい、そうなんです! たしかそんな話も前にしましたよね……」
そうだ、この話をしたのは学校の図書室だった。
小夜子はおもむろに、巾着袋に手を伸ばす。もしかしたら偶然会うこともあるかもしれないから、と。カードケースの中に入れておいたのだ。橘の名が書いてある、古ぼけた貸し出しカード。
「橘さん。実は、渡したいものがあるんですけど……」
その時だった。
「さよ」
聞き慣れた声が、後ろから。
「奏一郎さん!」
「探したよ。見つかってよかった」
涼しげに微笑む彼に、心臓が小さく跳ねる。
「お腹は空いている? 空いているならなにか食べに行こうよ」
「え……あ。は、はい」
揺れる二つの水風船。橘は、そっと静かに見送った。そして感傷に浸る間もなく、新たに連れてこられた迷子の面倒を見ることになるのだ。
小夜子は振り返る。泣いている小さな女の子。橘はその応対をしているようだ。視線を感じたのは、気のせいだったのだろうか。
「さよは何が食べたい?」
「え、えーっと。牛串が食べたいです! さっき静音ちゃんが美味しいって言ってて! あ、あとはかき氷も。ああでも、クレープも捨てがたいです、うーん……」
「ふふ、それじゃ全部回ろうか」
「はい!」
祭囃子に乗せられて、小夜子も自然と気分が高揚していた。
奏一郎は牛串もかき氷も、クレープも初めてのようだった。食べ方がわからずに困った顔をしているのを、可愛いと思ってしまったのは秘密だ。
「毎年、お祭りがあるのは知っていたけれど。こんなに賑やかなものだったんだね」
「参加するのは初めてですか。これから花火も打ち上がるんですよね?」
「そうだよ。花火はいつも見ていたんだけれどね……」
遠い空を見つめる奏一郎。ふと、目が合う。細められる碧眼に、ゆっくりと開く唇。
周囲の人々の気配に、声に、足音に。とっ散らかった騒々しさ。それでも小夜子の耳は、彼の声だけを拾うのだ。
「ねぇ、さよ。花火を見るのにぴったりの場所があるんだけれど」
囁きに似たそれに、背筋がぞくりと粟立って。続きの言葉を期待してしまう。
「このまま、二人で消えちゃおうか?」
祭囃子に乗せられて、心臓が早鐘を打つ。
「…………は、はい」
気がつけばそう返してしまって。いつの間にか手を取られてしまって。いつの間にか、歩き出していた。
綺麗に人波を避けていく。やがて市役所のテントの前を通り過ぎる時。橘と、目が合った気がした。
けれどすれ違う人の群れを抜けるのに必死で、必死で。落ち着いた頃には、テントのてっぺんが遥か遠く。
「どうかしたの?」
奏一郎が問う。
「い、いえ」
小夜子は思う。自分はいったいどうしたのだろうと。見られたくなかった。奏一郎と二人、消えていくのを。橘には見られたくなかった。
だから、言い聞かせる。目が合ったように感じただけだと。こんな人通りのなか、見つけられるはずもないのだからと。
ふと視線を上向けると屋台の下、静音がベビーカステラを食んでいる。小夜子は唐突に、左手の水風船を思い出した。
「奏一郎さん、ちょっと待っててください、すぐ戻ります!」
駆け寄り、静音の肩を叩く。
「静音ちゃん!」
「ん?」
大きな目が、こちらを見据える。
ベビーカステラを口いっぱいに頬張る静音。なんとも贅沢な食べ方だ。
「私、奏一郎さんに誘われちゃって……。ごめんね、行ってくるね!」
「ふぇ?」
「あと、これ。水風船、二つ取れたからおすそ分け」
「ん?」
「また後で、連絡するね!」
「んんん?」
早口に、足早に。小夜子は言いたいことだけ言って、静音の元を去った。
だから、小夜子には聞こえなかった。
ベビーカステラをようやく飲み込んだ後。ポツリと漏らされた静音の独り言は、届かなかった。
「……誰、今の?」
不思議そうに、水風船を見つめながら。




