第十九章:さりしもの ―葉月― 其の五
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明るい表情の静音には、たしかに黄色の浴衣はよく似合った。着付けが完成してからというもの、鏡の前から離れない静音。どうやらとても気に入ったらしい。芽衣だっていい加減に言ったわけではなかったのだ。
小夜子も静音も、髪飾りに簪まで借りてしまった。至れり尽くせりとはこのことだ。
「姉ちゃん、入っても平気?」
障子の向こう側、純の声。二人とも着付けを終えていたので、芽衣は了承の合図を出す。戸が開く。二、三度まばたきをした純が、
「小夜子先輩、静音先輩。どうも」
ぺこり、軽く頭を下げた。
「へえ。二人ともよく似合ってるね」
照れるでもなくそんなことを簡単に口にするので、こちらのほうが照れてしまう。
「ありがとう! そういえば、純くんもお祭りには行くの?」
「残念ながら手伝いで忙しいからね。姉ちゃん、準備できたよ」
「わかった」
すくっと立ち上がった芽衣。
「それじゃ二人とも、お祭り楽しんできてね」
「えっ!?」
小夜子も静音も、びっくりして顔を見合わせた。
「言ってなかったっけ。私は神楽舞があるから行けないんだ」
「そ……そうなの!?」
てっきり、一緒にお祭りに行けるものだと思っていたのに。
「もう時間がないか。純、二人を外まで見送ってきてくれないかな」
「わかった」
「気に入ったなら浴衣はあげるから。それじゃ、またね」
そそくさと立ち去ろうとする芽衣。
「め、芽衣ちゃん!」
思わず、声をかけてしまう。
「浴衣、本当にありがとうね! 神楽舞もがんばってね!」
別れ際、芽衣が微笑む。温かな笑みはすっと障子の向こうに消え、すぐに見えなくなってしまった。
玄関に向かうまでの間、純が二人に教えてくれた。
「これから体を清めるんだよ。体を清めてからは、神職の人間としか言葉を交わしちゃいけないんだ。舞が終わるまでね」
「ってことは、純くんとも喋っちゃ駄目なんだ」
「そういうこと」
「芽衣ちゃんの舞、きっと綺麗なんだろうね! 見に行ったら駄目かな?」
「ああ、見せ物じゃないんだ。儀式だから。閉め切った社殿の中で舞うからね」
「そうなんだ? 見たかったのに……残念」
肩を落とすと、仕方ないでしょ、と静音がやんわり嗜めた。
「楠木は、また別の機会に誘おうよ。今年はもう、お遊びは禁止だろうけど。受験が終わったら旅行の計画とか立ててさ!」
「そうだね……」
玄関まで純は見送ってくれた。来る時にはまだ聞こえてこなかった太鼓の音が、耳に入ってくる。
「二人とも、気をつけてね。祭りの日は面倒事も起きやすいから。なるべく頼りになる男の人と回るんだよ」
小夜子はふふ、と笑みをこぼす。年下の男の子のはずなのに、まるで母親みたいだ。
「うん、気をつけるね。純くんもお手伝いがんばってね!」
ひらひら、揺れる手のひら。
楠木神社を出て、長い階段を下っていく。階段に沿って提灯がいくつも連なっているのだが、数えるのも途中で止めてしまう。慣れない草履は緊張してしまうから、それどころではないのだ。
「しっかし、楠木って本当に小夜子のことが好きだよね」
階段の中腹で、静音がにやにやしている。
「え、そうかな? だとしたら嬉しいけど」
「そうだってー。私との扱いの差がすさまじくない?」
「うん、でも……静音ちゃんなら笑って許してくれるって思ってるからじゃないかなぁ。ある意味、甘えてるんだよ、たぶん」
「そうかぁ〜?」
言いながら、まんざらでもないらしい。さらに静音は続ける。
「前に杉田ちゃんも言ってたけどさ。まさかこの一年で二人とこんなに仲良くなれるなんて思わなかったなぁ。こうして浴衣まで貸してもらえるなんて」
「私も。初めて会った頃なんて、芽衣ちゃんに『私に関わらないで』って言われたこともあったな」
「まじか。それをあそこまで心開かせるなんて、たいしたもんよ、あんた」
「えへへ、そうかな。当時はショック受けたりもしたけど。……今はね、芽衣ちゃんのこと、諦めないでよかったなって思ってるんだ」
階段の終わり。目の前には縁日の屋台がところ狭しと並んでいる。焼きとうもろこしか、たこ焼き、焼きそばだろうか。空腹を誘う香りがもくもくと、辺り一面に漂っている。人手もどんどん増えて、にぎやかさが増してきた。
「私も、そう思う」
「え?」
静音が、困ったように微笑んでいる。表情の意味を理解できなくて、それでもわかりたくて、小夜子はひたすら沈黙を貫いた。そうすると自然、静音が導かれるように口を開く。
「結局、叶わなかった想いだけど。それでも途中で諦めないでよかったなって、思う。諦めていたらきっと、ちゃんと失恋もできないままだった。一生引きずっていたかもしれなかったから」
呼び込みの声のほうが大きいはずなのに。不思議と静音の声は、沁み入るようだった。
「で、小夜子は告白しないの? 奏一郎さんに」
一転、無邪気ないつもの彼女に戻った。それにほっとしたせいか、
「えーっと……ね。実はこの前、告白はしてしまっていて……」
口を滑らせてしまった。と思った頃にはもう遅い。先程のしんみりした雰囲気が嘘のよう。
「うそ!? まじ、いつ!? どこで、なんて告白したの!? っていうか返事は!?」
矢継ぎ早の質問がザクザク小夜子に突き刺さる。
「ひ、一月くらい前かな? なんて告白したか……は、恥ずかしいから言えないけど! 返事は、その……」
「まさか、聞いてないとか?」
「そう、なるのかな。『ありがとう』としか返されてないんだけど、それでも……告白できたことに満足しちゃって」
激しく。この上なく激しく、静音が首を横に振った。
「ダメだよそんなの〜! ちゃんと返事聞かなきゃ! っていうか早く言ってよ! そしたら今日は二人きりにしてあげたのにー!」
「ふ……ふたりきり!?」
「そうだよ! もう、今日は遠慮しないでいいからね? 奏一郎さんと合流したらふたりでデートに切り替えていいから! 私はお兄ちゃんと一緒に回るし!」
途中で二人が消えたって、なにも気にしないから!
静音が付け加えたその言葉に、だろうか。それとも煙の、その匂いに、だろうか。頭がクラクラしてしまう。
静音はそんな小夜子に気づかずに、きょろきょろと屋台をチェックしている。
「ねえ! もしかして……あれって恭兄じゃない!?」
クラクラ、クラクラ。こめかみを押さえながら静音の指差す方向を見ると、たしかに。巨大な屋台の下には彼がいた。
……色鮮やかなハッピを着て。
「よっしゃ、からかいに行ってやる!」
「し、静音ちゃん!?」
ついていかざるを得なかった。橘と会っていいのかどうか、気持ちの整理がまだついていないのに。
ゆっくりと慎重に近づいていく静音。どうやら突然に声をかけて驚かせる魂胆らしい。
当の橘はそんな静音にまったく気が付かない。
幼い兄妹、二人に水風船を渡しながら、
「転ばないようにね」
笑顔で手を振っている。遠目に見てもその優しい眼差しに、小夜子の心臓は少しだけ揺れた。
そっと背後に到着したところで、橘が振り返り──、鈍い音。
「いったぁ!!」
小夜子は見た。橘の肩と静音の額が衝突したのを。
「大丈夫ですか!? 怪我は……って、なんだ。静音か」
「どうして私の扱いは粗雑なのかなどいつもこいつもぉ!」




