第十九章:さりしもの ―葉月― 其の参
およそ一年ぶりの実家。鍵を開けて中に入ると、徹が掃除してくれていたのか、埃っぽさは感じない。念のため持参していたマスクを使う必要もなさそうだ。
徹は小夜子と桐谷を出迎えると、ともに荷物の運び出しをしてくれた。それも重たいものから優先的に。ふらつく足は、生まれたばかりの小鹿のよう。
「お父さん、腰痛めちゃうよ?」
「いや、大丈夫だ。向こうで体力も鍛えてきたから」
と、細腕を見せてくる。不安でしかない。
一方、桐谷はさすがに手慣れているのだろう、重たい荷物も軽々と運んでいく。
「全部、自室でいいんだよね……?」
「あ、はい! すみません、ありがとうございます!」
すべて桐谷に任せてしまったほうが早く終わるのではないか。
無表情でテキパキ。疲れの色をまったく見せない桐谷を前に、非力な親子はそう思った。
運び出しが終わると、徹は桐谷に深々と頭を下げた。
「手伝わせてしまって申し訳ない。おかげさまで早く終わりました。あの、これ、少ないですが……」
差し出した茶封筒。おそらく中身はお金だろう。
けれど桐谷は首を横に振った。
「いやいや、いいです……。どちらかと言うと、こちらはお礼のつもりでしたから……」
お礼とはなんのことだろう、と親子は首を傾げる。
「お正月に招待してもらったり、お花見では角煮とか玉子焼きも作ってくれたし。……ああそれから、マフィンもバレンタインデーにいただいたまま、お返しもできてなかったですし……」
「小夜子……おまえ、彼氏連れてきたのか……?」
「違います。全部事実だけど違います!」
青ざめた父に、少しだけ気色が戻る。が、そこで水を差すのが桐谷という男だった。
「彼氏ならきっとそのうち本物連れてきますから、がんばってくださいね……?」
「なん……だと……?」
「桐谷先輩!? そろそろ出ましょうか!」
正午を迎えた。次は静音、芽衣との約束を控えている。
慌ただしくも二人はマンションを飛び出していった。
「もう……! なんであんなこと言ったんですか!?」
トラックに乗り込みながら、小夜子は頬が熱くなっているのを感じていた。運転席の桐谷はどこ吹く風だ。
「別に嘘は言ってないじゃん……。一年後だろうが十年後だろうが『そのうち』は『そのうち』だよ。一生彼氏作らないってなら話は別だけど……」
──ああもう、この人は……。
小夜子は頭を抱えた。桐谷はそう言うけれど、誰を想定して発言したかは明らかだ。
「桐谷先輩。以前はどうだったかわかりませんけど。橘さんは、私のことなんてもう何とも思ってないですよ!」
「へ?」
「はっきり言われたわけではないですが、もう自分を頼るなと……そういうニュアンスのことを言われました。全部、奏一郎さんにしてもらえって」
「……ふーん? あの誰にでも優しいきょーやが、そんなこと言うなんて……」
自分で言っていて、なんだか寂しくなってきた。どうでもいいと言われたような気がして。時間が経てば経つほどに、実感が濃度を増していく。
けれど桐谷は言うのだ。
「それだけ、さよさよが特別なんだね」
「えっ?」
空気をまるごと入れ換えてしまうようなことを、言うのだ。
「な、なんでそうなるんですか?」
「さよさよ。きょーやになにか……きょーやが傷付くようなこと、言ったんじゃない? そうじゃなきゃ、合点がいかないんだけど」
言葉に詰まる。
質問に質問で返されたから、じゃない。
心当たりはないはずなのに、奏一郎の言葉が駆け巡って。
──僕たちは二人で、彼を傷付けたんだから──
……あの言葉が奏一郎の誤解でないのなら。
「傷付けるようなことを……してしまったんじゃないかと思っています。知らず知らずのうちに」
「へえ。それはもう、仕方ないよね。愛の深い人は、傷も深く付くものだから……」
青信号。桐谷の運転は緩慢で、けれどとても優しい。
運転に集中してしまっているのか、桐谷は続きを言わない。だから──考えざるを得なくなった。
その「愛」の矛先は、誰なんだと。
まさか、いやいや、そんな馬鹿な。
だけどもしかしたら、ひょっとして。
……何度も繰り返した自問自答を、今日になっても繰り返すなんて。
「違う人がいい? それとも、自分であってほしい?」
桐谷が問う。いつの間にか赤信号。
早く、青にならないだろうか。
願えば願うほどに、信号は赤をキープし続ける。




