第十九章:さりしもの ―葉月― 其の弐
あらかじめまとめておいた荷物を、階下まで運び出す。それを店先に横付けされた軽トラックに積んでいく。
奏一郎も桐谷も手伝ってくれたおかけで、滞りなくあっと言う間に作業は終わってしまった。
空になった自分の部屋、見慣れた天井の模様。最後だからと、ぐるり眺める。
ああそういえば、天井の灯りも奏一郎と二人で取り付けたんだっけ。そんなことを唐突に思い出す。
温かいオレンジ色の光が、その優しい色合いが小夜子は好きだった。
「さよさよー」
窓の外から桐谷の声。覗いてみるとどうやら、出発の準備ができたらしい。
「今、行きます」
部屋を出て、振り返る。そして実感する。たった今、この部屋は自分の部屋ではなくなったのだと。
──……また別の下宿生が来たら、この部屋を使うんだろうな。
深々と、頭を下げる。
「ありがとうございました」
言わないといけない気がした。言いたいと思ってしまった。
扉を閉める。階段を下る。体重の分だけ軋む足元。
そして一階に下りると、はじめに台所が目に入るのだ。
奏一郎がいつもここで料理をしてくれた。時にはともに台所に立った。料理を教わった。
失敗したこともあったのに、叱られたことは不思議と一度もなかった。
台所には、楽しい思い出しかない。
物思いに耽っていると、フチタローが体によじ登ってきた。生まれてきた兄弟たちの中で最もひ弱だったのにここまで力強く、大きくなってくれた。
里親を探してあげられなかったのが、それだけが心残りだ。
本当は連れて帰りたいと思っていたが、迷った末に止めた。フチタローまでいなくなっては、奏一郎の孤独は増す一方だから。
「フチタロー、元気でね。また会いに来るからね」
返事の代わりに、ゴロゴロと喉を鳴らしている。
ケージに入れると、文句を言いたげに激しく鳴き始めた。ああ、甘えん坊で可愛いな、と小夜子は頬を綻ばせる。
「さよ」
名を呼ばれ、振り返る。奏一郎が微笑んでこちらを見つめている。優しく、碧い目。
「奏一郎さん。奏一郎さんには本当に長い間、お世話になりました。私、伝えたいことがたくさんあって……」
「さよも、夕方に納涼祭に来るでしょう?」
「え。は、はい。そのつもりです」
ずっと考えていたお別れの挨拶。それなのに遮られてしまった。
「話の続きは、その時にしようよ」
にこやかにそう言われては、否とは言いづらい。
「そう……ですね。わかりました! それじゃ、とーすいくんはどこですか? まだ挨拶できていなくって。それに最近、あまり顔を見ていなかったですし」
「ああ、とーすいくんは……」
にこり。また、笑みを深くして。
「大丈夫。また会えるから」
ああ、この感じ、久しぶりだなと小夜子は思った。それ以上踏み込ませない、拒絶的な笑顔だ。
「……わかりました。それじゃまた、お祭りで」
「うん。すぐに見つけるから安心して」
エンジンをふかしている軽トラックに乗り込む。車内は暑く、座席に腰かけた瞬間にじんわり汗が浮かぶ。クーラーも点けてくれてはいるが、効き目を発揮するのには時間がかかりそうだ。
「桐谷先輩、すみません。お待たせしてしまって」
「うんにゃ、いーよ……。忘れ物はない?」
「はい、大丈夫です」
「それじゃ出発するよー」
トラックが動き出す。アスファルトを踏みしめる音。薄く開いたウィンドウの隙間から、風が流れ込む。
心屋の看板が遠のいていく。店先に立つ奏一郎がどんどん小さくなっていく。
どうしてか胸の奥で、心臓が早鐘を打っていた。
「寂しい?」
運転しながら、桐谷が問う。あまりにも簡単な問いを。
「寂しい……そうですね。心屋には、思い出がありすぎますから」
「まあ、またいつでもこの町に来たらいいじゃん。心屋さんならいつでもウエルカムでしょ」
「はい」
そう。機会も頻度も格段に減るだろうけれど、会えないわけではないのだ。そう思うと少しだけ、心臓も落ち着きを取り戻す。
「さよさよもお祭り行くんでしょ? 浴衣とか着るの?」
「あ、はい。芽衣ちゃん……お友達がたくさん持ってるから貸してくれるって。荷物を下ろした後、静音ちゃんと一緒にその子のお家に行くんです」
「へー、そうなんだ。……いいよね、浴衣女子……」
「なぜでしょう、ものすごく『はい』って言いづらいです……」
これも桐谷の魅力と言えるだろうか。話のペースが完全に持っていかれてしまう。……今はありがたい限りだけれど。
「きょーやもね、市役所から何店か出店するんだって。一緒に見に行こうよ」
「そうなんですか? でも、お邪魔じゃないでしょうか」
「大丈夫じゃないかな……。ていうか、さよさよ。見たくない? カラフルなハッピ着て営業スマイルで接客してるきょーや……。俺は見たい。カメラに収めたい」
想像してしまった。橘にハッピは似合わなそうだ。いや、意外と似合うのか? 案外、様になっているのか?
「めちゃくちゃ見たいですね……!」
「決まり。楽しみだね……」
「はい、楽しみです!」
車中ではお祭りの話題が続いた。トウモロコシは焼いてあるものよりも茹でてある方が好きだ、だとか。りんご飴は必ず食べるようにしている、だとか。桐谷のこだわりは際限がなくて、聞いているだけで楽しかった。
話を聞いている最中にも、考えるのは橘のことだった。
ああ、予感が当たってよかったと。
橘には最後にもう一度、会える予感がしていたのだ。
* * *
軽トラックを見えなくなるまで見送って、奏一郎はふう、と溜め息を吐いた。店に入り、商品たちを通り過ぎ。ロッキングチェアに腰掛ける。背もたれに身を預け、そっと足を浮かせた。
目を閉じる。耳には川のせせらぎ。キィ、キィと脚が鳴く。
ゆったり、ゆらゆら。ゆったり、ゆらゆら。
……緩慢に、時間は流れていく──。
「旦那」
目を開けずとも、わかる。誰が声をかけているのか、わかる。
「やぁ、とーすいくん」
「おう」
「準備は整ったのかい?」
「時間はかかっちまったけどな」
「そう……。苦労をかけたね」
キィ、キィ。キィ、キィ。
ゆったり、ゆらゆら。
「とーすいくん」
「なんだよ」
「いよいよだね」
「ああ、いよいよだ」
キィ、キィ。キィ、キィ。
ゆったり、ゆらゆら。
「旦那」
「うん」
「俺様は、旦那から生まれたんだ。だから、旦那が何を選択したって文句は言わねぇよ」
「……うん」
「一蓮托生ってやつだ。忘れんなよ、旦那」
キィ。
……気配が去ったのを察して、奏一郎は動きを止めた。
「……あっさり、しているものだね」
実に彼らしい、と思わず笑みがこぼれてしまう。そのくせ、彼の台詞は粘り強く響くのだ。
「何を選択しても……か」
彼は何を言っているんだろう。
迷う余地なんてあるものか、と。
そう思うのに、なぜ?
手のひらに胸を押し当てる。
正体不明の、得体の知れない何かがそこに巣を作っているのがわかる。
何かが生まれようとしているのが、わかる。
茶の間の奥では、ケージの中でフチタローが暴れている。早く出せ。ここから出せと、ガシャン、ガシャンと音を立て。
……奏一郎の胸の奥に響くものと、それはひどく似ていた。




