第十九章:さりしもの ―葉月― 其の壱
それから、何度も同じ夢を見た。
夢を見る度に、目覚める度に違和感は募っていく。
うなされたのか、夜中に目を覚ましたら決まって冷や汗が全身に及んでいた。
汗を拭うために洗面台へ向かい、顔を洗う。そこで自然と鏡が目に入る。
頬にぺちり。手を当てると、垂れがちな目尻が不安に揺れる。
そこに映っているのが本当に己なのかと、疑う日々が続いた。
終業式、通知表を渡される時も。担任に名前を呼ばれたのに反応が遅れた。その名前に、あまりに馴染みがなくて。
この時ばかりは、静音にも芽衣にも心配されてしまった。
「大丈夫、小夜子? いくらなんでもポーッとしすぎじゃ?」
「萩尾さん、調子悪いなら送っていくけど……」
小夜子。萩尾さん。ああそうだ、萩尾 小夜子。そんな名前だった。
「ううん大丈夫だよ! ありがとう、二人とも」
心配してくれる、名前を呼んでくれる二人の存在がありがたかった。
もう自力では、思い出せそうにないから。
奏一郎と夕食を食べて、他愛もない会話をしている間も気もそぞろだった。
相談してみようか、と何度も思った。彼ならなにか解決策を見出してくれるのではないか。そう期待した。
けれどできなかった。
残り僅かな下宿生活を、そんなことのために浪費したくなかった。
それになにより。
目の前にいる奏一郎が、本当に「奏一郎」なのかわからなくなってきていた。
一年を共に過ごしてきたはずなのに、まるで夢でも見ているかのように現実味がないのだ。ちゃぶ台を挟んでいるだけのはずなのに。霞みがかった景色の向こう側に、常に彼はいた。
夢を見る度に、思う。目覚める度に、思う。
どちらが現実だったろうかと。
眠るのは怖いのに、睡魔はことごとく襲いかかる。
今宵も、夢の入り口に立つ。
牢屋の向こうの子供は、夢を見るごとに成長を遂げていった。相変わらず腰かけたまま、動いた気配こそないけれど、小夜子の身長はとうに越している。長い黒髪も床を這ってはいるけれども、立ち上がれば床から数センチは浮くだろう。
細いけれど広い肩幅。骨の目立つ手の甲。夢を見る度に、成長すればするほどに、その子供が男性だったのだと実感していく。
けれど、いったい何年?
何年間、彼はここに閉じ込められているのだろう。
なぜ、閉じ込められているのか。
ふと、気配を感じ足元を見る。
猫だ。茶と白の毛が入り混じる、子猫にしてはふくよかな──。
あんず、と声を出しそうになった。彼女の子猫の頃なんて知らないのに、なぜか彼女だと思ってしまった。
格子状の牢もなんのその、その小さな体はやすやすと侵入に成功した。そのかわいらしい鼻先でツン、と彼の着物の裾を突く。
のそり、と音が聞こえてきそうだった。
子猫に反応した彼が、初めて膝から顔を起こした。長い黒髪の隙間から、端整な横顔が垣間見える。細い指先を子猫の顎に伸ばして、くすぐるような仕草をして。
小夜子は強い既視感を覚えた。
──知っている。私はこの人を知っている。
それなのに思い出せない。どうして。どうして。
「……あなたは、誰なの?」
……思わず、口を塞いだ。この場所で声が出たのは初めてだった。
声に反応したのか、子猫をくすぐるのを止めた彼。岩が動いたみたいに緩慢な動きなれど、横顔から正面に。
天井の小窓から、光が差し込む。
細かな埃が反射して、暗闇を漂う。
それらが邪魔をしてもなお、小夜子の目に飛び込んできたのは──空を閉じ込めたかのような。
驚くほどに深い、碧の眼だった。
目が覚めて、小夜子はこれまでとは違う気分でいた。汗もかかず、動悸もない。
なにか夢を見たような気がしたけれど忘れてしまった。怖い夢だったような、そうでもないような。
思い出そうとしても難しかったのでその代わり、ああ、昨夜は楽しかったなと振り返った。
最後の夕飯ということで、奏一郎と一緒にカレーを作ったのだ。ありきたりな具材だけじゃつまらないから、と冷蔵庫の野菜をすべて詰め込んで煮詰めた──不思議な味のカレーだった。
けれどとても、楽しかった。
茄子は合うね、オクラも案外いけるね、なんて笑い合って。
楽しい気持ちで今日を迎えられてよかった、と小夜子は思った。
今日で最後だから。最後の最後まで、楽しい気持ちのまま奏一郎と過ごしたい。
カーテンを開けて、昇ったばかりの太陽を出迎える。強い日差しは、今日の快晴を知らせている。
「旅立ちには、ぴったりのお天気だね」
奏一郎が言いそうなことを呟いて、小夜子はふっと笑みをこぼした。




