第十九章:さりしもの ―文月・下旬― 其の壱
チャイムの音。と同時に、現代文の担当教諭が重い腰を上げた。
「はい、テスト終了。悪あがきせずにさっさとシャーペン置けー」
全員から深く、長い溜め息が漏れる。
学期末テストが終わった。終業式さえ済ませてしまえば、夏休みの始まりだ。
しかし皆の表情は晴れない。夏休みなんて名ばかりで、勉強漬けの日々は続くのだから無理もない。
テスト用紙の回収の最中、机に俯せる静音に問いかける。
「ねえ。夏休み、一緒に勉強する?」
「嫌ー! そこは『一緒に遊ぼ』が良かったー!」
小夜子としても同感ではあるが、そういうわけにはいかないのも現実だ。
「受験って言ったってさぁ! ダメかな!? 海行ったりバーベキューしたりさぁ!」
「ダメなんじゃないかな? 夏休みをどう過ごすかで一気に差が付いちゃうと思うし……」
「やっぱダメかぁぁ……」
項垂れる静音。ああでも、とすぐにこちらに向き直った。
「そういえば納涼祭、小夜子も来るんだよね? それくらいは許されるよね!?」
「うん……そのつもり。でも実はね、ちょうど納涼祭の当日になったんだ」
静音の大きな目が、さらに大きく丸くなった。
「え? まさか、引っ越し作業?」
「うん。納涼祭当日の朝に荷物の運び出しがあって……桐谷先輩が手伝ってくれることになったんだけど。お父さんに話したら、お祭りが終わったら車で迎えに来てくれるって」
「えー、けっこうバタバタじゃん。私もなにか手伝おうか?」
ぶんぶん、と小夜子は首を横に振る。
「荷物、そんなに多くないの。ほとんどまとめ終えてて、段ボール箱がいくつかあるくらいだから」
「そっかぁ。そんじゃ、力仕事は男に任せるかー」
お祭り、楽しみだね。
そんな声は周囲からも聴こえてきた。
納涼祭は三週間後。三週間後にはもう、この街を去るのだ。下宿生活が終わって……奏一郎とも、離れ離れになるのだ。
* * *
蝉の鳴き声が幾重にも連なっている。ガスバーナーのような太陽に、フライパンのようなアスファルト。汗で制服と肌がくっつく。歩けども歩けどもサウナ状態。息苦しさを覚えるほどの暑さに、小夜子の体力はどんどん奪われていった。
心屋に到着する頃には息も絶え絶えだ。
「おかえりなさい。試験、お疲れ様」
爽やかな笑顔で奏一郎が出迎える。待ってましたとばかりに差し出されたコップには氷水。口にした瞬間、頭の中に浮かんだのは「水を得た魚」だ。
「はあ、はあ。もう、暑くて暑くて死ぬかと思いました……! 睡眠不足もあってか、頭がクラクラ、グラグラと……っ!」
「ふふ。今日はたしかに暑そうだ。夕飯までもう少しかかるから、それまで休んでおいで」
「そうしますね、ありがとうございます……!」
階段を上る。部屋の扉を閉める。そこでようやく、ふうと一息。
「……ほんと、いつも通りだなぁ」
好きだと伝え、ありがとうと返された──あの夜から一ヶ月。
その間、奏一郎の態度には何ら変化がなかった。
いつものようにごはんを食べ、会話をして。のほほんと過ごす……だけ。まるで何も起きなかったみたいに。
「これはやっぱり、やんわりフラれてるってことなのかな?」
残り僅かな下宿生活が気まずくならないように、あえて話題にしないようにしているのではないか。
汗の張り付いた制服を脱ぎ捨てながら、独り言は止まらない。
「だとしたらショック、だな……」
勢いもあったとはいえ、それでも勇気を出しての告白だったのに。
奏一郎がなにを考えているのか、なんて今に始まった悩みではない。けれどもこうまでノーリアクションだとは思わなかった。
ベッドに身を投げる。見慣れたはずの天井ももう、数えられるほどにしか見られないのだ。
ふと目を閉じる。なにも考えたくなくて。そうだ、このまま眠ってしまえたらいい。現実逃避にしかならないのはわかっていても、今は目を背けてしまいたい。
瞼で閉ざされた暗い視界。
窓の向こう、蝉たちの声は鳴り止まない。ああ、うるさい。早く、早く眠ってしまえたら。
耳障りなはずの蝉たちの声──それが一瞬で静まり返ったので。小夜子は己が今、夢の世界に足を踏み入れたのだと悟った。
目を開けてみると……目の前には格子状の牢があった。相変わらず堅牢なそれは、動かそうと力を込めて叩いてもビクともしない。
右手の鬼灯の灯りは、この場において唯一の光。牢の向こうを淡く照らしてくれている。
見張り番の子供だ。今回も膝に顔を埋めて座っているので、やはり顔は見えない。かろうじて、長い黒髪が地面を這っているのがわかるだけ。……以前見た時よりも、髪が伸びているような。
あなたは誰?
どうして私を閉じ込めるの?
そう問いかけようとしても、今日も声にならない。
鬼灯の灯りを揺らしてみても、一切の反応もない。
自分は、本当にここに存在しているのだろうか。そんな疑問を持ち始めた、その時だった。
「それじゃあ駄目なんだよ」
背後から声が聴こえたのは。まだ幼さの残る、少年の声。
思い切って振り返ると、そこにはたしかに少年がいた。身長は小夜子よりも頭一つ分は小さそうだ。肩より長い銀髪が、淡い光を拾い集めて輝いている。
小夜子が声を出せないでいると、少年は小夜子の右隣に腰かけた。右手の鬼灯の灯りを優しく取り上げて、
「鬼灯の花言葉は、『偽り』だからな。このままじゃ、『真実』を見せてくれねぇんだ」
小夜子の両手を受け皿に。少年は鬼灯を逆さまにした。
オレンジ色の光が溢れていく。温かい光。両手を伝い、全身へ。やがて足を伝って床へ。壁へ。天井へ。どんどん光が伸びていく。常闇の空間が光で満たされていく──。
……やがて、光は失われていった。鬼灯のランプはもうどこにもない。少年の姿もいつの間にか消えている。
けれどもう、ランプは必要ないのだ。天井の小窓から、仄かに月明かりが差し込んでいるから。
小夜子は今まで、どこまでも続く闇の世界に閉じ込められているのだと思っていた。
けれどそれは勘違いだった。「真実」は──それこそ心屋の居間くらいのスペースしかなかった。
ひび割れてはいるが壁があって、今にも崩れそうだが屋根がある……手狭な小屋でしかなかった。
そして、もう一つの勘違いに気付いた。
目の前には、例の格子状の牢がある。その牢を挟んだ向こう側には、やはり子供がいた。膝に顔を埋め、いつまでも動かない──その子が、見張り番ではなかったのだと気付いてしまった。
小夜子は驚き、安堵し、混乱し、理解した。
すべて、逆さまだったのだ。
自分ではなかったのだと。
閉じ込められていたのは、子供のほうだったのだと。
瞬きを、ぱちり。
目の前には見慣れた天井。耳には蝉の声が染み付いている。
ゆっくり体を起こしてみると、全身から汗が噴き出していたのがわかる。それなのに寒いのだ。冷房を点けていたわけでもない。だからそんなはずはないのに、震えるほど寒いのだ。
思わず、胸に手を当てる。遠慮がちに刻まれる鼓動。つい先程から動き出したみたいに。つい先程まで、死んでいたみたいに。
「わ、たし……私は……?」
自分のことがわからない。名前は覚えている。そう、たしか「小夜子」だ、そのはずだ。なのに確証が持てない。自信がない。
本当に自分は、「小夜子」なんだろうか?
階段を下りる。台所に向かう。音がする。白髪の男性が、まな板で何かを刻んでいる。
彼は……そう、「奏一郎」だ。きっとそうだ。
──本当にそうだろうか。
「奏一郎さん」
名前を呼ぶ。振り返る。ということはやはり、彼は奏一郎で合っているのだ。
「どうしたの、さよ?」
微笑みながら、そう返してきた。
──ああ、よかった。ちゃんと、合ってた。
「小夜子」はほっと、息を吐いた。




