第十九章:さりしもの ―文月― 其の弐
夕方になっても、気温がなかなか下がらなくなってきた。遠くに沈みかけているはずの太陽が、最後の仕上げとばかりに念入りに街を炙っている。
飲みの誘い、瀬能の誘いを断り、橘は帰路に就いていた。人通りも疎らな道。閑静なはずのそこに、ガラゴロ、ガラゴロと小気味良い音が響く。やがて縦に長く伸びた己の影に、見慣れた人物の足が重なった。
「おや、たちのきくん。今、帰りかな?」
いつもならその柔和な表情に目を奪われがちである。が、今日はその彼の背後に思わず視線を送ってしまう。
「ああ。おまえは……何を運んでるんだ?」
巨大な引き車。説明するより見るが早い、と言いたいのか、奏一郎が体をずらして箱の中身を見せてきた。
茄子や胡瓜、南瓜にトマト。形の良いものと悪いものが混交しているが、その量は引き車の大きさに見合っていない。
「長いこと畑をやっていたんだけどね、思い切ってやめてしまおうと思って。食べ切れないから知り合いに配っていたのさ」
藤さんがたくさん引き受けてくれて、助かったな。嬉しかったな。
言葉の響きとは裏腹に、奏一郎の表情はどこか寂しげに見えた。夕焼けがそうさせただけか。
「何でまた……体、あまり良くないのか?」
「それもある。畑をやりたいって夢はもう叶ったし。手伝ってくれていたさよも、もう少しでいなくなってしまうからね」
「ああ、そうらしいな」
平静を装った。もう少し、というのはいつなのか。いつまで彼女はこの街にいるのだろうか、と思って。知ってどうなるものでも、どうするのでもないけれど。
「そうそう。たちのきくんは、納涼祭には行くのかい?」
「納涼祭?」
突然の問いに即答できず、鸚鵡返しになってしまった。なぜ話題がそこに飛ぶのか。
「ああ。市役所もいくつか出店するからな。祭りの半分は店番だ」
「そうなんだ。実は納涼祭の翌日なんだ、さよが出ていくの」
へえ、と返したものの、声が裏返ってしまった。あと一月。たった一月で。
「ふふ、動揺してる」
さもおかしそうに奏一郎が笑う。……いちいち癇に障るやつだ、と思わずにはいられない。まして、
「たちのきくん、さよに告白はしないの? こういうの、最後のチャンスっていうんじゃないの?」
そんなことを無神経に訊いてくるのだからなおさら。前回、己が言った台詞を覚えていないのだろうか。とんでもない爆弾を爽やかに押し付けたことを、忘れたとでもいうのか。
こちらはいつ爆発するか、それともしないのか、戦々恐々としているというのに。
「俺のことはいいだろ! 問題はおまえだ。おまえこそ彼女のことをどう思って……」
言いかけて、やめた。やめざるを得なかった。碧眼が笑みを作る。たった一度だけ見た、あの困った笑い顔。
「……そうだね。言葉にするならどれがいいんだろう。どれなら正解なんだろう。どれが近くて遠いのか、わからないな、わからないや。だって僕は人間じゃないし──」
僕にはいつも、一つ足りないから。
いつかの台詞を最後に添えて。
ずっと引っかかっていた。唯一、コンプレックスを覗かせるその一言が。
「……そういえばおまえは、前にも言ってたな。『自分にはいつも一つ足りない』って」
そうだ、そしてこうも言ったのだ。どうせなら君のような人間に生まれてきたかった、と。
「何か、勘違いしてないか? そんなの誰だってそうだろ」
碧眼が丸くなったのに、橘は気付かない。だから続けた。そのまま続けた。
「完璧な人間なんているわけないだろ。いつも何か足りなくて、満たされなくて。不安で、不満で。それでもなんとか歯食いしばって、生きてるんだろ」
ぱち、ぱち。二度の瞬き。
実感が湧かないのか、理解が追いついていないのか。……後者であることを祈りながら、続けた。
「お前だけが足りないなんて、そんなことあるわけないのに。……それに劣等感を覚えているなら。その線引きが、俺とお前を遠ざけているのなら──」
恐れていた。奏一郎という存在を。初めて出会ったあの夏から。
けれど橘は思う。変わった。彼は、変わったと。
「気付いてないのか、奏一郎? お前はじゅうぶん、人間らしいと」
……ここでようやく、橘は奏一郎の様子に気付いた。丸めていた碧眼を細めていく様を。ぽかんと開いた口が笑みを形作る様を、見届けることができた。
「ふ……ふふ。あは、あははは……っ」
高笑い。我慢していた感情が吹きこぼれたみたいに、腹を抱えて。
「は、初めて言われたよ! 誰にも言われたことないよ、そんなの! ふ、あははは! そんなこと、あるわけないのに……!」
まただ。
橘は少しだけ、物悲しい気持ちになった。
「はー、おかしい……! ああ、笑った、ああ。こんなに笑ったのは久しぶりかも、ふふ。……本当に、君は優しいね。僕にまで、そんな風に言ってくれるんだから」
ほら、また遠ざかる、と。
「君みたいに言ってくれる人、きっと後にも先にもいないよ。ふふ、君には初めてを貰われてばっかりで、なんだか悔しいや」
「妙な言い回しすんな」
けれど、本当に悔しかったらしい。
こういう時、奏一郎が次に何を言い出すのか橘には予測できていた。
「うーん。それじゃお返しに、君が言われたことなさそうなことを僕も言うとしよう!」
ああ、当たってしまった。一年という歳月は、そんなに短くない。
「ねえ、たちのきくん。君が優しいから。優しすぎるから、訊くのだけれど。君はどうしてそんなに優しいの?」
意外なことに。これまでの人生で何度か、何人かに訊かれてきたことだった。だから、答えも一緒だ。
「特別、優しくしているわけじゃない。俺がそうしたいと思ったことが、たいてい相手にとって都合が良いってだけで……」
「なにかきっかけでもあったのかな。生まれつきかな? それとも生まれる前から?」
これまた、意外なことに。遮られてしまった。しかも会話が噛み合わない。質問してきたくせに、答えを聴きたいわけではないらしい。
「ねえ、たちのきくん。君は知っているのかな。気付いているのかな。誰にでも優しい人ってね、心からの思いやりの人もいれば、計算があっての人もいるんだってこと」
そしてまたひとつ、意外なことに。
奏一郎の言う「初めて」が訪れたのは、この後だった。
「それから。後ろ暗いこと、やましいことがあって、それらから解放されたい人」
奏一郎が微笑む。
「ねえ。君はいつになったら、後ろめたさから解放されるの?」




