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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第七章:けせるもの ―長月・中旬― 其の参

 しばらく、辺りには水の流れる音しかしなかった。

 日はもう落ちて、川を挟んだ向かいの街灯が仄暗く点いたのを、静音は見た。


「えへへ、すいません、こんな話しちゃって。でも、初めてこんなこと話すから、ちょっとどきどきしちゃいましたよー。っと、色塗り、完成しましたー!」

 両手で高々と、静音はキャンバスを持ち上げる。その様は、初めて賞状を貰って帰ってきた小学生のようだ。

「ありがとう」

 蛇口の捻る音。と同時に台所から現れた奏一郎が、キャンバスを受け取る。その碧い目を細めて、彼は喜びの表情を浮かべた。

 何が嬉しいのだろうと、静音は小首を傾げる。そんなに上出来だったろうか。単に色を塗り潰すだけなのに。


 すると、キャンバスに送り続けていた視線を、今度は彼女に向ける奏一郎。

 そして次にはゆっくりと、突拍子の無い質問をするのだった。

「……君は、その恋に何を求めてる?」

「え?」

「“恋う”ことは“乞う”こと。“何かを求めること”だろう?」

 さっぱりと、秋風のような涼しげな笑みのまま、彼は続ける。

「君は、この恋がどうなればいいと思う? どうなることを、望んでる?」

「……私は……」


 ――“何を、求めているか”……? ……そんなの、昔から同じ。


 一度口を噤むも、ほんの少しの間を置いてからはっきりと、静音は言った。

「消えてしまえばいいと、思ってます」

 次に続く彼女の台詞を、奏一郎は瞼を閉じて、耳を傾ける。

「いつの間にか好きになった時みたいに。いつの間にか、消えてしまえばいいのにって、思います。……結ばれないのわかってて、想い続けるなんて……辛いだけ、ですから」


 ――……もう、嫌だ。



 小川から、だろうか――夜になるのを待ちわびていたかのように、虫の声があちらこちらから静かに鳴り響く。一匹が鳴けばそれに呼応するように、二匹、三匹と美しい音を奏で、幾十にもそれは重なって――何を合図にか、一瞬、それが静まった。


「……人を好きになるって言うのは、どう言えばいいのかな」


 奏一郎が口を開く。


「……空から、何かが降ってきたような、そんな感覚かなあ。何気なく、ゆっくりと、ふわふわと何かが舞い降りてきたような……暖かい、感覚だよな」

「…………」

 優しく、穏やかな声。次第にその声に、虫の音が重なる。

「一日中、その人のことばかり考えている。何をしていても、何もしていなくても……頭から離れないで」


 ……今、何をしているのかな。

 元気でいるだろうか。

 頑張って、いるだろうか。そう考えてしまうよね。


 奏一郎の声の、言い終わりがか細くなっていくせいか。彼の一つ一つの言葉は静かに、寂しく響いていく。その響きとは裏腹に、その頬は綻んでいた。まるでその目蓋の裏に愛しい者を思い浮かべて、慈しんでいるかのように。


「でも、そう考えている間に……会いたくなって。想いを伝える勇気も無いくせに、日に日に想いは強くなる一方で。……苦しい、よなぁ」


 静聴していると、だんだんと俯いてしまうのは何故なのか――静音にはわからなかった。そうして俯く先、視線の先には、白いキャンバス。奏一郎はいつの間にか、まだ乾ききっていないそれを彼女に見せつけていたのだ。


「……簡単には消せないモノだろう? ……そういうものは」


 キャンバスは、白く塗られていた。


 しかし――。


 真っ白には塗られてはいなかった。


 そこにあったのは、真っ白とは違う灰白色――。


 たしかにそこには、白とは別の色があった。以前に何かの色があった、その痕跡はたしかに残されていた。

 たとえどんなに強く塗りつぶしたとしても、完全な“白”にはなれない。


 過去の色は消えない。

 きっとそれは変わらないのだ――。


「……あは。なんか、変なの。ちゃーんと塗ったつもりなんですけどねー……真っ白に。何で、かなあ」

 眉根を寄せて笑う静音の声に応えるのは、低く落ち着いた声だった。


「君は、すごいな」

「……え? なんでですか?」

「ずっと何年も無理して笑っていられるくらい、純粋に人を好きになれるんだから。……誰にでもできることじゃない。頑張ったんだな、君は」

 

 その台詞に、大袈裟に目を丸くする。

「……えー? そんなことないですよ。私、ちゃんと、笑えてますよ!」

 その丸くなった目は――次第に視界を歪ませていった。上擦る声。これらの意味するものは何なのか――静音は知らないわけではなかった。

「あ……あれ? でも、なんか……泣き、たい……かもですね。……ははっ」


 喉の奥に、痛みを覚える。こみ上げてくるそれが何なのかくらい、わかっている。

 目からそれが零れないようにするのは、こんなに辛いことだったろうか――。


「泣いてもいいんだぞ? ここにいる人間は自分一人だと思って、思う存分泣くといい」


 子供のような彼の笑みを見た瞬間……静音はそれをこぼしてしまっていた。


 許された気がした。

 初めて、本当の自分が出せた気がした。


 奏一郎は腰を上げると、台所の小窓を開けて空を見た。


 群青色の空。

 秋らしさを深めた涼しい風が、髪を優しく撫でていく。小川に茂る雑草を揺らせる。音を立てる。


「……それに、目の前に存在するモノを『存在しない』って言うのは、難しいんだ……」


 彼の静かな独り言は、夜風と共に走り抜けていった。


* * *

 

 暗闇の中、細い三日月が辺りを淡く照らしている。心屋の周辺には街灯など無い。必然的に、心屋の店先から漏れるオレンジ色の電灯だけが、足元を視認する唯一の手段だった。


「何のお構いもできず、済まなかったな」

 店の時計は、既に夕方の六時という時を刻んでいた。まだ小夜子は帰ってきていない。出かけてから、優に二時間は経っているのだが。


「さよが早く帰ってきてくれれば、お茶菓子も出せたんだが」

 久々の来客が嬉しかった分、何ももてなせず寂しいらしい。

 静音は気落ちした様子の彼にふふっと笑った。


「いいえー、全然っ。楽しかったですし、お話聞いてもらってすっきりしたし! ……それにこんな腫れぼったい目、小夜子に見られたくないですし……」

 暗闇で傍目には分かり難いが、静音の目は充血し、目頭から目尻までが真っ赤に染まっていた。普段意識しない瞼に、重みすら感じる。


「うむ、だいぶひどい顔になったな」

 あっさりと言う割に、悪気がないから質が悪い。

「ちょ、ひどいのはどっちですかーっ!? ……いやー。でも、久々に泣いてすっきりしましたっ! ……本当にありがとうございました。何か……上手く、言えないけど」

 首を少し傾かせながら、

「想い続けても……ひょっとしたらいいのかなって、思えました」

 と笑った。


 今度は、ちゃんと笑った。


 彼女の表情には、吹っ切れたものがあった。目元以外は。


「……君は、大事な“お客様”だからな」


 ぽつりと呟く彼の顔は、家の電灯がの逆光でよく見えない。

 だが、微笑んでいることだけは声色でわかった。


「君の“人を想う心”、たしかに受け取った。君にとって良いことが、きっと起こるぞ」

「……? はい……」

 穏やかさが溢れた笑み。しかし、どこかそれは、他人を拒絶しているようにも静音には思えた。決して核心に立ち入らせない、強い意志も見え隠れしている。


 そして――何故か伝わってきた。

 それは決して自分には、見せないものなのだろうと。


 肩までの黒髪を風になびかせて、静音は心屋から一歩、足を踏み出した。


「……また来ますねっ。お邪魔しましたーっ」

 来る時にも通ったアスファルトを歩きながら、奏一郎に手を振る。ゆっくりと手を振り返す彼もまた、笑顔でいることは容易に推測できた。


 やがて、いつもの通学路に辿り着く。多くの車たちが時折、騒々しいクラクションを鳴らしながら、目の前を横切っていく。


 ふと、静音は目を丸くして、先ほどの道を振り返る。

 街灯の無い、暗闇。どこか不気味で、見慣れない道。


 ――……あの店、本当に静かだったなぁ。


 まるで、別世界にいたかのように。


 その時、携帯電話の振動が着信を知らせる。すぐさま静音は携帯電話を開いて、受話器のボタンを押した。

 着信の相手を確認せずに電話に出るのはあまり良くない癖だと、母親からは逐一言われていたのだが――それを、静音は身を以って思い知ることとなる。


「もしもーし?」

《あ、静音? ひさしぶ……》


 その、左耳を通過する声に、静音は携帯電話を落としそうになる。が、地面に落下する直前でキャッチに成功した。それでも心臓がどきどきと高鳴るのは――顔が火照って熱くなるのは――相手が、相手だから、だ。


「お、お兄ちゃん!?」

《…………》


 問いに何故か黙る電話の相手。しかし、間違いようがない。


 ――……お兄ちゃん、だ……。


 左手に携帯電話を、右手に高鳴る心臓を抱えて。静音は電話の向こうの応答を待つ。


 ゆっくりと、電話の向こうの声が聴こえてくる。

《……えーっと。静音は……俺の妹だよね……?》

「え? う、うん」

《だったら……俺は静音の兄なんだと思うよ……?》


 そのよくわからない理屈に、静音は吹き出して笑った。

「なん、それ。お兄ちゃん、相変わらず意味わっかんな……」

 お腹を抱えて笑う。すれ違う通行人も、そんな静音を少しだけ不審視している。が、すぐさま体と同じ方向に首を向けた。


《……静音さ、どうしたの?》

「えー? 何がー?」

《なんか、泣いてるっぽい声してるから》


 その抑揚の無い声に足を止めて、静音は涙の跡を拭った。


 ――……全然会ってないのに。そんなとこ、見たこともないくせに。

 それでも……私が泣いてるって、わかってくれるんだね……。


 ふふっと、静音は笑った。


「ちょっと感動する映画観たからさー。……あれ? お兄ちゃんはどうしたの?」

《うん、あのね。俺……今日、ケーキを三つ貰ったんだけど……二つ食べたい気分だったのね?》

「……うん」

《で、一個はもう食べたんだけど……残りの二つのうち、どっちを食べるか決めらんなくて。だから静音、どっちか食べに来て……余ったほう俺が食べるから……》


 ――……お兄ちゃんらしい。私は甘いもの、苦手なんだけどな。それは知らないんだね。


「……仕方ないなあ」


 そう言いながら、静音は軽やかな足取りで、『桐谷建設』へと向かった。


 ――……会いに行こう。会いたいから。


「……あ。ねえ、お兄ちゃん。よかったら、なんだけど。猫飼えない?」


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