第十九章:さりしもの ―文月― 其の壱
「ごめん、純」
絞り出した声に震えこそなかった。どんな感情を込めても、今はどれも間違いな気がした。
「私、自分のことを見てほしかっただけ」
誰よりも、自分を。
「誰よりも、奏一郎よりも自分を見てほしかっただけだ」
だってそうじゃなきゃ、説明がつかない。名前を呼ぶ。振り返る。褐色の瞳に自分が写り込む。その瞬間だけは、誰も阻めない。誰にも邪魔されない。それが嬉しくて。
「ずっと……奏一郎のことを調べていたのも、萩尾さんのためって思ってた。でも違った。そんな純粋な感情じゃなかったんだ。……どうにかして、引き離したかっただけ。そのきっかけを探していただけ」
どうして気がつかなかったのだろう。気づきたくなかったのか。目を反らし続けてきたのか。
「萩尾さんと奏一郎が離れ離れになるかもって聞いた時から。もう私、ほとんど満足してた。離れ離れになるって確定した今は、もう──」
もう、あの蔵にも柊の研究室にも、自分の心はない。
「萩尾さんのためなんかじゃ、なかった……」
喜びと虚無感が、同時に喉を締め付ける。言葉を堰き止めて、押し留めて。空に放たれる代わりに体中に巡っていく。
毒のように。
──私は、自分のことしか考えていなかったんだ。
* * *
芽衣に言われたとおり職員室に行くと、杉田が応対してくれた。小夜子の姿を見るなり、「久しぶり」と声をかけてくれたのだ。話すのは卒業式の日以来。静音と芽衣とは再び同じクラスになれたものの、杉田は今年度から隣のクラス担任だ。
「今日はどうした? テスト期間中に職員室に来るやつは珍しいぞ」
「あの、図書室に本を返しに行きたくて。今日は司書さんがお休みらしくて」
「ああ、なるほど。ちょっと待ってな」
しばらく待っていると、杉田が鍵を手に戻ってきた。本を数冊、小脇に抱えて。
「私も返しに行かなきゃいけなかったんだ。おかげで思い出したよ」
廊下を渡り杉田と二人、無人の図書室に入る。たった一日、誰もいないだけで空気を埃っぽく感じたのを小夜子は不思議に思った。
杉田が慣れた手付きでパソコンを立ち上げ、返却処理を行っていく。まずは小夜子の分。貸し出しカードに返却日を記入し、パソコンにも入力していく。
「二度手間、というか……けっこうアナログですよね」
「まあねぇ。でも再来年からはもう、このパソコンも必要無くなるかも。学生証が貸し出しカードにもなって、バーコードで読み取り形式にするんだってさ」
「へぇ……。進んでますね」
「利便性向上、もそうだけど。個人情報保護って点もあるかもな。貸し出しカードに自分の名前が残るのが嫌ってやつもいるかもしれないし」
貸し出しカードに名前を書く、そんな風情は無くなるけどな、と。杉田がぽつりと呟いた。
その傍ら、手持ち無沙汰の小夜子は司書のテーブルに沿って歩いていた。足の爪先が、ちょんとダンボールに触れる。中身は見た目にも古い蔵書。積まれたそれの横には、杉田曰く「風情のある」貸し出しカードが何枚も重なっていた。
シュレッダー機の隣にあるからには、明日にはバラバラの紙屑になっているのだろうが。
黄色く変色してしまっているそれに手を伸ばすと、小夜子は思わず目を見開いてしまった。
よく見知った名前が、予期せぬところから突然に飛び込んできたのだ。
──「橘 恭也」。日付は十年前。
「先生! 橘さんの名前があります!」
「えー?」
手渡すと、杉田も目を少しだけ丸くして、やがてほんのり微笑んだ。
「ああ、そっか。古くなった本をいくつか、市の図書館に寄付することになったんだよ。それで貸し出しカードだけ抜き取ってあったんだね」
杉田は納得して、小夜子にカードを返した。けれどそれと同時に、小夜子がもの言いたげな目をしていることにも気づいたらしい。
「あの、このカードなんですけど。もらったりしたらだめ、ですか?」
「え、なんで?」
なにに使うの? と杉田の目が言っている。もっともな疑問だ。
「この前、橘さんがここに来ていて。貸し出しカードを見て自分の名前がないかって探してたんです」
「へえ」
意外だとでも言いたげに、杉田が目尻に皺を寄せた。
「橘さんにとってはただの暇潰しだった、と思うんですけど……もし渡したら喜んでくれるかもしれないので」
「んー、まあ、いいんじゃない? 他に誰の名前も書かれてないし」
「あ、ありがとうございます!」
頭を下げつつ、貸し出しカードを見つめてしまう。丁寧で達筆な字。これは彼が書いたのだろうか。
もし渡したら、喜んでくれるだろうか。
また以前のように、優しく微笑んでくれるだろうか。
次に会う約束なんてしていない。したこともないけれど。会える保証なんて、どこにもないけれど。小夜子は少し、ほっとしていた。
最後に会った時に見た彼が、少し寂しそうだったから。
けれど。もう一度、最後に。
橘と会えるような気がした。




