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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十九章:さりしもの ―水無月― 其の十

 そこまで考えたところで、お開きとなった。研究室から廊下に出てみると、ナイター照明がグラウンドを煌々と照らしている。駅に向かうバスももう本数が少ないということで、柊の車に乗せてもらえることになった。

 ほとんど独学でそこまで読み解けるなんて、だとか。研究熱心なのは素晴らしいことだ、とか。運転席から賛辞の声が止むことはなかった。けれど、後部座席の芽衣は気もそぞろだった。相槌は純に任せ、ただ流れていく窓の外の景色に意識を投じていた。


 柊に礼と別れを告げ、二人はホームに立ち尽くした。あと数分もすれば下りの電車がやってくる。大きな、大きな溜め息を吐き出したのは純だ。

「……まさか、楠木(うち)の話になるとは思わなかったね」

 純はそう言うけれど、芽衣はひとり納得していた。

 思い出されたのは正月、奏一郎と交わした会話。


 ──「実は僕はね、以前にも君のその目を見たことがあるんだ。……正確には、違う、別の人の、だけれど」──


 ──「人格を思わせる深い琥珀。無償の温もりと、弛まぬ憐れみ。静かな憎しみで僕を見る……そんな目だった」──


 畳の上、組み敷かれた男がそう漏らす。記憶の片隅に放置していたはずのそれが、今さらにとんでもない存在感を放ち始めた。


 奏一郎が言っていたのは、楠木家の先祖のことだったのだ。


「けど……ここまでわかっても。あいつの正体は未だ掴めず、だね」

 言いながら、純に勝るとも劣らないボリュームの溜め息をひとつ。

「そうだね。で、どうするの」

「どうするって?」

「どこまで小夜子先輩に話すのかってこと」


 吐いた息が、冷たくなって戻ってきた。電車はまだ、やってこない。


「……あいつの正体についてまだ何もわかっていないのに、言うことないじゃない」

「そうかな。今日の収穫だけでも話しておいたほうがいいんじゃない? あいつと過ごす時間が長い分、小夜子先輩もこの話を聞いてなにか思い当たる節があるかもしれないじゃん」

 腕時計をちらと見やる。まだだ。電車はまだ、来そうにない。


 でも、と繋げそうになるのを、純は静かに遮った。

「……姉ちゃん、この間からずっと上の空だ。小夜子先輩のためになるなら、なんでもするんじゃなかったの? 何にそんな、迷ってるの」

 線路の向こう、チカチカとライトが漏れ出す。徐々に大きくなってくる光が眩しくて、思わず目を逸らす。それでもまだ、責めるような琥珀の視線からは逃れられない。


 飛び込んできた轟音がありがたかった。開いた扉が、周囲の存在が、いるだけでありがたかった。

 それからはもう、互いに口を開くことはなかった。芽衣にはわからなかった。自分が何を考えているのか。心臓に絡みつくこの感情の名が何なのか。先ほどの研究室に、心を置いてきてしまったみたいだ。



* * *



 学期末試験が差し迫る七月。受験生ということもあってか、クラスメイトの表情には鬼気迫るものがある。試験が終われば長い夏休みが待っているが、遊んではいられないというのが辛いところだ。

 昼休み、静音がサンドイッチを片手に英語のテキストをぼそぼそ読み上げる。小夜子はといえば、のほほんと弁当に舌鼓を打っていた。


 芽衣も日本史のノートを眺めつつ時折、小夜子に視線を向ける。勉強になんて集中できるはずもなかった。


「小夜子、ずいぶん余裕じゃん。さては夜中にこっそり猛勉強してるなー?」

 静音の軽口に、小夜子は微笑んだ。

「ううん、全然。そろそろ本格的にしなきゃとは思ってるんだけど。荷造りも少しずつ進めなきゃいけなくて……」

 荷造り、という言葉に。思わずノートを持つ手に力が入る。

「八月の半ばなんだけどね、その日にお引越し作業することになったんだ。まだ少し先なんだけど、秋服とか冬服とか、まとめるのがけっこう大変で……」

「あー、そっかぁ。やっぱりお父さんと暮らすことになったんだね。転校するわけでもないのになんか、寂しくなるなぁ」

「私もやっぱり、名残惜しいな。すごく……」

 言いながら、お弁当のおかずを口に運ぶ小夜子。静音は気づいていないかもしれない。けれど芽衣はわかった。噛み締める回数が多いことに。空になった弁当箱を、しばらく見つめていたことに。


「私、本返してくるね」

 数冊の本を片手に立ち上がる小夜子。廊下に消えていくその後ろ姿に、つられるように芽衣も立ち上がった。


 行き交う生徒の流れの中でも、小夜子の髪の色は目立った。けれど一瞬、色褪せたような。視界からぼやけたような。

 純の台詞が思い出される。



 ──「早くしないと、小夜子先輩……消えちゃうような気がするんだ」──



「萩尾さん!」

 振り返る。輪郭が戻ってくる。色が帰ってくる。

 とてとて、と小夜子が駆け寄ってくる。

「芽衣ちゃん、どうしたの?」

 自分がどんな顔をしているのか、彼女の表情を見ればわかる。きっとひどい顔をしているのだろう。けれど、嬉しかった。褐色の瞳に自分が写っていることに、喜びが駆け巡る。


 その時になって、だった。宙ぶらりんのままふわふわと。正体のわからなかった感情に、ようやく名前がついた。


「……あの、ね。実は……」

 狼狽えた。躊躇った。

「今日、司書さん、休みだったと思う」

 この感情のままに、言葉を繋げて良いものかと。

 咄嗟に口から漏らした台詞は、不本意だが事実だった。小夜子はそっか、と納得し、

「じゃあ、職員室に鍵借りに行かなきゃだね! ありがとう、芽衣ちゃん」

 再び、廊下の奥に消えていった。


 しばらくそれを眺めるも、背後に感じた気配。振り向かずとも、誰なのかはわかっている。

「……結局、言い出せなかったね」

 失望とも、幻滅ともとれる口調。芽衣と同じように、純が廊下の奥に視線を向けていた。

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