第十九章:さりしもの ―水無月― 其の七
フチタローがごはんの皿を空にしたのは、珍しいことだった。生まれた時から兄弟の中でも一番ひょろっとしていて、見た目からして頼りない存在だったのに。毎日見ているから実感こそあまり湧かなかったが、着実に大人に近づいているようだ。
「しかもその後、おかわりもしたんですよ!」
猫のごはんを終えた後は、二人で卓袱台を囲む。帰宅した頃には、奏一郎が夕食の用意を終えていた。
「あんずのこともあってかこの頃、食欲が落ちてて心配でしたけど……元気になってよかったです」
にこり、奏一郎が微笑んだ。
「そうだね。もうすっかり、元気になったね」
本当によかった、と言葉を落として。
「ね、さよ」
その穏やかな表情のままに、話題が大きく換えられた。
「僕にまだ言っていないこと、あるよね」
驚いて、箸が止まる。問いではないから。心当たりがひとつだけ、あるから。
「……お父さんと会ったんですか?」
「今日、ここを訪ねてこられてね」
飲み込む唾が渇き始めた。
「一周忌の時にはもう、一緒に暮らさないかと持ちかけていたと。それから一向に返事がないと」
「ち、父がご迷惑を」
「大丈夫だよ。それより、どうして僕に何も言わなかったのかな」
遮られてしまった。口調は穏やかなのに、静かに責められているような気がしてしまう。
卓袱台の上に視線を落とす。
「ご、ごめんなさい。なんだかまだ、心の整理がつかなくて。やっぱりまだお父さんのことが、怖くて」
「本当に?」
視界が泳ぐ。嘘だった。本当はもう、父のことは怖くなどない。だって小夜子は、奏一郎の言うとおり「もう、わかっている」のだ。
「本当は、違うでしょう?」
「わ……たし、奏一郎さんが心配で。この前みたいに倒れたりしたら」
「僕はもう、大丈夫だよ? ほら、今日だって料理も作れているし」
卓袱台の上、今日も和食が中心だ。いつもと変わらぬ美味しさだ。
「……でも、万が一ってこともあるじゃないですか。お客さんなんてほとんど来ないのに、倒れてそのまま誰にも気づかれなかったら……」
「藤さんが様子を見に来てくれるよ、きっと。唯一の常連が来なくなったら、心配するでしょう?」
「ああ、そうかもしれないですけど、でも……でも」
言葉に詰まる。だって、言えない。
「離れるのが寂しい」なんて、そんな子供みたいなこと。もしも、「どうして」なんて訊かれたら、どうしたらいい。
「もう一度、きちんと会って、話してみたらいいんじゃないかな。彼は何年経とうとも彼のままだけれど。きっと少しは、変わっているはずだから」
「……奏一郎さんは」
自分の想いを、その丈をぶつけたら。どんな顔をするのだろう。驚くだろうか。喜んでくれるだろうか。……きっと、どれも違う。
「私が出ていっても……いなくなっても大丈夫、ですか」
きっと今みたいに──、
「うん、大丈夫だよ」
心を揺さぶられることもなく、凪いでいるのだろう。何も起きなかったみたいに。
揺さぶられるのは、波風立つのは、いつも自分だけ。
「……わかり、ました。お父さんと連絡取ってみますね。ごめんなさい黙ってて!」
へら、と笑ってみせる。急拵えの、はりぼての笑み。
笑え、笑え、笑え。
心と器が、乖離していく。
* * *
休日のファミリーレストランは失敗だったろうか。食器の重なる音、子供たちの笑い声。重なる周囲の喧騒を聞いて、小夜子はそう思った。けれど父と話をする分にはこれくらいがちょうどいいのかもしれない、とも。念のため、人の少ない奥の席を選んでよかった。
傍らの大きな窓からは眩しいくらいの直射日光。氷水がところ狭しとひしめき合うコップの側面は、既に水滴がいくつも浮かび上がっている。
携帯電話を見ると、父からメールが入っていた。待ち合わせの時間に遅れるらしい。困ったな、なにをしていればいいのだろう。今はなにも考えたくないのに。
一人になると、奏一郎のことを考えてしまうから。
いなくなっても大丈夫、なんて。言われたくなかった。
引き留めてほしかった、なんて。言えるわけもなかった。
頭の中で繰り広げられる思考の渦。ぴたりと止めてくれたのは、ようやく到着した父だった。
「悪い、待たせたな」
休日ということもあってか今日はスーツではない。新調したのか見慣れない、鮮やかな色合いのポロシャツを着込んでいる。
「なんだ、注文してないのか。昼飯はまだか?」
問いに黙って頷くと、メニューを広げ始めた。
「好きなものを頼みなさい。ハンバーグもあるぞ。小さい時、好きだったろ?」
「……小さい時、は」
「そう、か……俺は……どうしようかな……」
メニューを眺め始めた。たぶん、予想される沈黙に耐えられなかったのだろう。本当はお腹なんて空いていないのかもしれない。どれにしようかな、なんて考えてもいないかもしれない。
ウェイターが水の入ったコップを持ってきた途端、一気にそれを飲み干している。上下する喉仏。氷しか入っていないコップを手に、おかわりしてくる、と席を外した。喉は乾いていたらしい。
いそいそと戻ってくると、
「先に……そうだな、話をしようか」
そう言ってメニューを畳んだ。ああ、なんだか落ち着きのない。落ち着かない。
「新しい学校はどうなんだ? 友達はできたか?」
頷くと、口角に深い皺が浮かび上がった。
「そうか。新しい環境に馴染めているか、心配だったんだ」
「……そっちは。どう、過ごしてたんですか」
「いや俺は……まあ、海外に住むのは初めてだったけどな。自分のことをまったく知らない人たちに囲まれるわけだから、かえって気楽ではあった、かな……治安は悪いけどな」
特に相槌を打つわけでもないのに、父はそのまま続けた。表情を固くして。
「……煙草はな、もう止めたんだ」
おそらく、ここからが本題だ。
「褒められることじゃない、当然のことだ。俺は……そんな当然のこともできていなかった。守るべき立場なのに。父親として、娘であるお前に最低のことをしてしまったと思っている」
一息だった。そしてまた、息を吸って。深く、深く頭を下げ始めた。
「母さんの、ことで……お前に当たってしまったこともあった。本当に最低の父親だ。殴られたって構わない。俺はきっと、お前をずっと、殴ってきたんだから」
周囲の喧騒が収まってきた、ような。ついでに視線も感じるような。けれど、周囲に目を配ってなんていられなかった。ただただ、白髪混じりの頭頂部を見つめていた。
「弱い、情けない……こんな父親で、本当に申し訳なかった」
この人は、こんな風に頭を下げるような人だったろうか、と。驚きに目を見開いてしまう。
一年前、荷物をまとめていた。二つのキャリーバッグに、洋服や通帳、学生鞄などを詰めて。ほとんどがらんどうになりつつある部屋を、茫然自失状態で見つめていた。
玄関先で、行ってくるね、と声をかけたその時。リビングにいる父から返事はなかった。気をつけてな、もない。元気でな、もない。白煙をくゆらせる曲がった背中だけが見えていた。それが、最後の父の姿だ。
奏一郎は言っていたっけ。きっと少しは、変わっているはずだから、と。少しどころの騒ぎではない。
けれど海外で一年を、しかも一人で過ごしてきた彼は、一年前の最後に見た彼とは別人みたいだ。
と、さすがに視線の数も増えてきた。
「もう、お願いだから頭上げて」
素直に従うもなお、父は唇を真一文字に結んでいた。泣いているのを堪えているみたいに。
「……俺はたぶん、ずっと最低のままだったんだ。心屋のあの人に言われなきゃ、きっと変わる努力もせずに過ごしていたんだ」
「え?」




