第十九章:さりしもの ―水無月― 其の五
梅雨入りの発表にもかかわらず、今朝も晴れ間が広がっていた。小川の反射がキラキラと目に眩しい。学校へ向かう小夜子を見送り、家事も終えて一息。店のロッキングチェアに腰かけ、奏一郎は目を瞑っていた。川のせせらぎと、チェアの脚の軋む音。
以前なら膝の上、ゴロゴロと鳴る喉の音もここに加わっていたはずなのだが。もうそれを耳が拾うことはない。フチタローは奏一郎の膝の上をお気に召さなかったらしいので。
代わりに、アスファルトを踏む革靴の音が重なる。音が止まるのと同時に、店内にかかる細い影も止まった。チェアの脚は止まらない。奏一郎は知っていたから。影の正体も、それがいつ来るのかも。
「いらっしゃい」
奏一郎がそう口にすると、びくりと肩を震わせた。細かった影はますます縮み、奏一郎は少しだけそれが愉快に思えた。
「茶葉を切らしているので。外でお茶でもいかがですか?」
誘いに、細い影はゆっくりと頷いた。ようやく立ち上がり、店のシャッターを閉める。奏一郎が歩き出すと、影もゆっくり付いてきた。距離感が凄まじい。
チェアはそのうち、軋むのを止めた。
* * *
「それにしても、随分とお痩せになりましたね」
喫茶『藤』の奥まった席。それぞれの注文を終え、落ち着いたところで開口一番がそれだった。
「ちなみに言い忘れていましたけどここ、灰皿は置いてないんですよ。大丈夫ですか?」
奏一郎の問いに、その意味するところに、喉仏を上下させたのは──徹だ。
「必要ないので」
「おや、そうですか。へぇ、がんばったんですね」
にこり、と奏一郎は笑んだ。彼が煙草の臭いをまとっていないことには気付いていたが、念のための確認だった。
「海外での生活はいかがでしたか? やはり慣れるまでが大変なんでしょうね。ストレスにもなりますよね。文化も食べ物も違いますし、それもお一人で。八つ当たりできる相手もいないですし……」
「やっぱり、あんたか」
徹は、苦虫を潰したような表情を浮かべていた。ゆらり、瞳の奥に怒りが見える。
「あんたが小夜子を止めているんだろ!?」
きょとん。奏一郎が目を丸くしたところで、藤の「お待ちどおさま」が低く響く。到着したブレンドとミルクティの香り。
突然の大男の登場に、徹はまたも縮み上がった。
「店内ではお静かに願います」
「し……失礼しました」
ずんずん、と藤の重たい足音が去っていく。
藤の迫力に圧倒されてか、先ほどの激昂はしおしおと萎んでしまったらしい。おとなしくコーヒーを口に運ぶ徹。
「で、僕が止めている、とはどういうことです?」
「……この間の一周忌の時だ。また一緒に住まないかと。小夜子に提案したんだ」
「ほう」
「あの子がまだ俺を怖がっているのはすぐにわかった。だからつい、焦って。自分で決めなさいと言ってしまった。特に期限も言わないで……」
「おやおや」
「だがもう、一月だぞ! 何の音沙汰もない。学校だって卒業まで今のままでいいことも伝えた。いったい何が不満なんだ!?」
声のボリュームがまたも大きくなってきたので、奏一郎は黙ることにした。ひたすら、黙ることにした。
「だから俺は、あんたがきっと小夜子を引き留めているに違いないって」
つられるように、徹は再びしおしおと。
「……思っていた、のに。……どうやら、そうじゃないみたいだな……」
ドライフラワーみたいだ、と奏一郎は思った。たぶん触り方を間違えたら、パキパキと音を立てて容易に崩れるんだろう、と。
沈黙を破ったのは奏一郎だった。
「いったい何が不満なのか、なんて。訊く相手は僕じゃないでしょう」
ドライフラワーと目が合う。
「連絡を寄越さない、それがどうしてなのかも。どこに理由があるのかも。きっとあなたは、わかっていないから」
「知っているさ! ひどいことをしたと思っている。怖がるのは当然だ。だから私はこの一年、許してもらうためにがむしゃらに走って……!」
「ほら、やっぱりわかっていない」
奏一郎は緩く微笑んだ。
「何が不満なのか。何を怖がっているのか。何を許せないのか。それはあの子が決めることですよ。あなたじゃない」
「……な、にを」
「一年前には言葉にできなかった想いだって、あるかもしれないでしょう。それを全部、ちゃんと本人の口から聞いて、受け止める。……それができて初めてようやく、第一歩、なんじゃないですか?」




