第十九章:さりしもの ―水無月― 其の参
夜になっても雨はまだ降り続いていた。屋根の上、一定のリズムが刻まれている。
自分の茶碗を洗いながら、昼間の会話を思い出す。やはり今日にでも、奏一郎に父のことを伝えるべきか。
皿洗いを終えた途端にさらに雨の勢いは増していった。川が氾濫、なんてことはないだろうか、と店先を覗くと、そこに奏一郎はいた。
いつもなら店仕舞いの時間だ。閉じられているはずのシャッターは全開で、雨の匂いも濡れた空気も、店内に充満していた。アスファルトを削るように叩く鋭利な雨粒も見える。
「どうかしたんですか?」
「あんずがね、家を出たっきり帰ってこないんだ」
言われて初めて気付いた。今朝から一度も、あんずの姿を見ていなかったことに。
「だからシャッターを開けたままにしてるんですね。いつ帰ってきてもいいように」
「あんずがいないと、落ち着かないみたいだから」
堅く閉じられたケージの奥、呼応するかのようにフチタローが鳴いた。
「ほらね」
「……私の部屋で預かりましょうか?」
「その方が良いかもしれないね」
フチタローの入ったケージを持ち上げ、二階へ向かう。ふと奏一郎を見てみると、微動だにしない背中が目に入った。彼はそこから動くつもりなどないようだ。
「奏一郎さん、まさか一晩中そこにいるつもりですか?」
「そうだよ?」
今日、戻ってくるかどうかもわからないのに。奏一郎は、そこで初めて振り返った。
「待つのは得意なんだ」
オレンジ色の灯りが、弱々しい微笑みを照らした。
父のことを話すべきか否か──迷いを忘れさせるほどの。
* * *
明くる日、学校へ向かう小夜子を奏一郎は見送った。
店先の掃除をして、ふうと息を吐く。昨日とは一転、太陽の眩しい朝だった。
番傘を片手に、奏一郎はゆったりと川沿いに歩き始めた。心屋のシャッターは開けたままだ。
雨上がりのわりに、空気はからりと爽やか。人通りの多い道に出れば、登校している小学生たちが列を成している。彼らの足取りは羽のように軽く、水溜まりを華麗に避けていた。
他にもスーツ姿の老若男女。段差に揺れるベビーカー。緩い服装の大学生。駅に向かうのだろう、皆が同じ方向に向かっていた。
横切るように、脇道に入る。
閑静な住宅街。人通りは極端に少なくなった。遅い朝食だ、フライパンで何かを炒めている音がどこかの家から聞こえてくる。
道が細くなってきた。軽自動車くらいしか通れないだろう横幅の。並ぶ家々のせいか、水溜まりの数は多い。
そこに、茶色の毛並みは転がっていた。
昼寝をしているのだと思って近付いた。けれどそうではないのだと気が付くのに、時間はかからなかった。わざと足音を立てても、ぴくりとも動かない耳。洗濯物のように両手と両足をそれぞれ揃えて、尻尾はだらしなく曲線を描く。
抱えてみると、地面に接していたところはしっとりと濡れていた。雨は彼女の体をしっかりとアスファルトに型どってくれていた。
仰向けに抱いてみると、彼女はおとなしく腕の中に収まってくれた。この体勢は嫌いだったはずなのに。
太陽が眩しかった。
川の流れは穏やかだった。
雨上がりの空気は爽やかだった。
子供たちの足取りは軽かった。
皆が駅に向かっていた。
誰か、誰かは朝食を作っていた。
あんずは、死んでいた。
「……君も僕をおいていくんだね」
何度目か、何匹目か。
唐突に訪れた、「あんず」とのお別れの朝だ。




