第七章:けせるもの ―長月・中旬― 其の弐
考え事をするときの仕草――。奏一郎は天井を見上げた。小夜子に話を逸らされたことに関しては、一切気にしていないようだ。
「んー、お茶菓子か。冷蔵庫の中に寒天ならあるぞ」
「寒天、は……ちょっとお茶菓子には不向きなのではないでしょうか……!?」
「そうか?」
けろりと言い放つ奏一郎。本日も、彼は自己の世界を展開中だ。
棚から財布を取り出した彼は口を開く。
「何か買ってくるとしようか。二人共、何か苦手な食べ物は無いか?」
「私は、特には無いですけど……」
言いながら、小夜子が横目で静音を見る。
「あ。私、甘すぎるものは苦手で……和菓子とかなら大丈夫なんですけど」
言いにくそうに、静音は困ったような笑みを浮かべてそう言った。
「あ、じゃあ私、すぐに買ってきます! 待っててね、静音ちゃん!」
言い終わるのが早いか、心屋から姿を消したのは小夜子だった。
* * *
「……通常、ここは僕が行くべきだろうに、ね」
微笑む奏一郎に、笑顔で応える静音。
「それにしても、ここは面白い商品をたくさん売ってますね~」
「ああ、これらは、売っているわけじゃないぞ」
彼女の言に、何でもないことのように奏一郎は返した。
「え、売っているわけじゃないってどういうことですか?」
静音には意味がわからない。「商品」とは、売るために作られたものではないのかという疑問が脳内を駆け巡る。
ぽかんとした彼女を見て、さもおかしそうに奏一郎は笑うのだった。
「あはは。ここの商品は、お金で買えるものじゃないんだよ」
「ええ……? な、なにで買うんですか……?」
「心だよ」
一瞬、彼が何を言ったのか静音にはわからなかった。しかし、徐々に彼の言葉が浸透するにつれ、目を大きく見開くのだった。
「よっくわっかんないけど、かっこいー……。まさかのソウルですか……!」
補足して説明すると、彼女は本気の感想を述べている。
「『そうる』……。 うーん、そうだね、そうなるね……」
更に補足すると、爽やかな笑顔の彼は『ソウル』の意味を知らない。
淀み無く、彼はこの店について説明をし始める。
「僕は“お客様”から、店の商品を通じて“心”を貰う。そして、僕はそのお礼にお客様に“お返し”をする。そうやって、ここの商売をやってきたんだよ」
「へぇー。何か、やっぱりよくわかんないですけど、すごいですね! かっこいいです、そういう生き方!」
「……『かっこいい』?」
彼女の言葉を復唱して、奏一郎は笑った。
「そうしたいと思っているだけさ」
もうすぐで役目を終えることを告げるかのように、風鈴の音が静かに、一度だけ響いた。
* * *
もうほとんど日は沈んで、空は薄い藍色と紫で染められていた。しかし振り返ってみると、まだオレンジ色の夕陽の残り火が、地平線の間際にちらついている。
自身の長い影を追いかけるようにして、小夜子が向かったのは商店街だ。
『青葉商店街』と書かれてあるアーチ。それに浮かぶ傷や錆びれから醸し出される古びた雰囲気は、長年そこに在ることを思わせ、やたら愛おしく感じさせる。
それに、古びた感じがしていても夕方になるとここには主婦がたくさん集まるので、穏やかな中にも活気づいた雰囲気が漂っていた。
更に魚屋や豆腐屋の店主が、よく通る声で客寄せをする場面を見ると、テレビドラマでも観ているような気分になる。
日常の中にいながら『非日常』を感じ取れるようなこの場所が、小夜子はお気に入りだ。どことなく、雰囲気が心屋に似ているからかもしれない。
――コンビニの場所も知らないから、何となくここに来てしまったけど、お茶菓子になるもの売ってるかなぁ……。
「あ、おい、そこのお嬢ちゃん!」
よく通る大きな声。その方向に顔を向けると、そこには和菓子屋があった。
そして、その軒下に佇む四十代半ばと見られる男が、こちらをじっと見つめていた。先ほどの声の主はこの男らしい。
辺りを見回すと、自分以外に『お嬢ちゃん』と呼べそうな年齢の者はいない。主婦ばかりだ。怖ず怖ずと、その和菓子屋に――というよりも男性に近づいていく。和菓子独特の甘すぎない、それでいて馥郁たる香りは、小夜子の空腹を促した。
「あの……私、ですか?」
「そうそう。あんた、聖さんの所の下宿生?」
『聖』、という姓を聞いてしばらく経った後、それが奏一郎の姓であることを思い出した。思わず笑みがこぼれる。
「はい、そうです」
男性も予想が的中したからか、満足げに口角を上げた。浮き上がった皺は、彼の年齢を物語る。
「ああ、やっぱり。見ない顔だから、そうかなぁと思ったんだよ」
「……奏一郎さんと、お知り合いなんですか?」
「ああ。面白い旦那だよな、見て呉れとか。なぁ?」
快活な男性だ。笑顔がつられる。
「よく、自分とこの畑で余った野菜を貰ったりしてるよ。あんなよくわからん店畳んで、八百屋やりゃ儲かるだろうになぁ」
たしかに。心屋で商売をするよりも、八百屋の方が明らかに儲かりそうだ。彼に商才があるかどうかは別として。彼の育てる野菜は、言葉では表現しにくいほど美味しいのだから。
――あれ。そういえば、全くお客さん来ないのに、生活費をどう遣り繰りしてるんだろう、奏一郎さんは……。
小夜子の頭の中で、疑問が右往左往する。
意識が飛びかけている彼女に気づいていないのか、和菓子屋の主人は話を続ける。よく噛まずにすらすらと、言葉が出てくるものだ。
「俺の親父の記憶が確かなら、『心屋』とはもう五十年は仲良くさせてもらってるよ」
小夜子は目をぱちくりさせた。
「ご、五十年、ですか……?」
「ああ、戦後は食べる物に困ってたんだが、あいつの祖父の“誠一郎さん”は無償で、みんなに野菜を配ってたんだと!」
――奏一郎さんのお祖父さん、“誠一郎さん”っていうんだ……。
「白髪に碧目で、日本人離れした容姿でみんなに忌み嫌われてたのに偉いよな本当に。当時の人たちにとっちゃぁ、神様みたいなもんだ。それの影響か、親父はここを始めたんだよ。皆の腹を俺の和菓子で満たしてやるってな」
和菓子屋の主人が、店の柱をぽんぽんと優しく叩く。彼はどうやら二代目の和菓子屋の主人だったようだ。
「まだ俺が小せえ時には何度も会ったよ、誠一郎さんには」
「そうなんですか……」
――なんか……奏一郎さんのルーツが聞けて嬉しいかも。
……あれ、でも。
「……奏一郎さん、誰かと暮らしたことないって、言ってましたけど」
小夜子の言葉に、何かを思い出そうとする仕草で、和菓子屋の主人が眉をしかめた。
「……んー。たしか五年位前か? ……誠一郎さんが亡くなったって聞いて、俺が心屋に行ったら。誠一郎さんに瓜二つの奏一郎がいたんだよ。『孫です』って言ってな。誠一郎さんは独りで暮らしてたから、まさか妻子に孫までいたとは思わなかったんで驚いたな、あん時は……。それ以前、奏一郎がどこにいたかは知らねぇなぁ」
小夜子は、奏一郎の言葉を思い出す。
――『生まれた瞬間を、覚えている。その時、思ったんだ。ここから離れるわけにはいかないと』――
もしその言葉を信じるならば、彼は生まれた瞬間からあの場所に――心屋にいたことになる。
だとしたら、和菓子屋の主人の話と矛盾が生じるではないか。
「……そういえば……」
眉をひそめながら、主人は口を開く。
「何ですか?」
「俺の親父も、今の俺と同じようなことを言ってたなあと思ってさ。誠一郎さんの親父さん……つまり、奏一郎の曾祖父さんな、“玲一郎さん”っていうんだが。『玲一郎さんが亡くなってから、誠一郎が急に現れた』ってな」
小夜子は目を丸くした。
――……死と、生が繰り返されてる。
不自然なほど、規則的に――。
今更ではあれど、主人の先ほどの言葉を思い出す。
――『誠一郎さんは、白髪に碧目』――。
誠一郎と奏一郎の特徴は、酷似している。いくら血族とは言え、そんなことがありえるだろうか。
――『誠一郎さんに瓜二つ』――
――……もしかして。……いや、まさか……。違うよね。
辺りは完全に夕闇と化し、涼しい風が吹き抜けた。
本来の目的を思い出した小夜子は和菓子屋に入り、ガラスケースに陳列された、色とりどりの和菓子を見つめる。
しかし……なかなか選ぶことはできなかった。
今はただ、自分の思いつきがとてつもなく非現実的であること、そして論理的であることに、躊躇いと激しい鼓動を感じていた――。
――違うよね……。“誠一郎さん”が実は、奏一郎さんだった、なんてこと。あるわけないよね……?
『有り得ない』と、そう思っているのに。
心臓の鼓動は、徐々に早まるばかりであった。
* * *
「やははっ! かーわいい~」
黄色い声を上げるのは、四匹の仔猫と戯れる静音だ。よたよたと歩き始めた仔猫たちは、元気いっぱいに畳の部屋を駆けずり回る。
「……さよ、遅いなぁ」
落ちていく日を見つめながら、奏一郎は呟いた。
「せっかく遊びに来たのに、お茶菓子も出せないとはな……。寒天ならあるが、食べられるか?」
「あははっ。奏一郎さんって、本当に面白いですねーっ」
けたけたと笑う静音は、仔猫たちを丁寧にケージに帰していく。奏一郎は至って本気なのだが。
「……しかし、何も娯楽が無いのもな……。あ、そうだ」
奏一郎が、ぱたぱたと忙しい様子で店先から何かを持ってくる。
「娯楽とは言えないかもしれないが、少し店の手伝いをしてくれないか?」
「いいですよー。何するんですかっ?」
右手には、黒く塗りつぶされたキャンバス。そして、左手には絵の具のセットがあった。
「この絵を、別の色に塗りつぶしてほしいんだ」
静音は目を丸くした。
「え、商品、ですよねー?」
「うん。でもいいんだ。この店の商品は、僕が創ったものだから。この絵だって、僕が描いたんだから」
そう言って、静音の前にキャンバスと絵の具のセットを置く。
黒く満遍なく塗りつぶされたそれは、もはや“絵”とは言えない気がしないでもない。
「君の好きな色で塗ってくれ」
「わっかりましたー。任せてくださいっ」
早速、絵の具セットの中から一つ選び、パレットにその色を乗せていく。選ぶのに時間はかからなかった。
迷い無く静音が選んだ色は、白だ。
「『バンド』とやらは、楽しいのか?」
徐に奏一郎が口を開く。ちなみに彼は、『バンド』の意味を知らない。
「楽しいですよーっ。お客さんのノリが良いときとか、上手く叩けたときとかは特に」
まばゆい静音の笑顔に応えるかのように、奏一郎もゆっくり微笑む。
「その瞬間だけは本当の自分を出せますし、全部、悩みとかも忘れられますし」
そう言って、キャンバスを白く塗りつぶしていく。黒かった箇所は、静音の手によってどんどん、黒から鈍色に、鈍色から灰色に変わっていく。
「ああ、悩みがあるのか」
彼のあっけらかんとした一言に、筆の動きが一瞬だけ止まる。笑顔が消える静音。そしてほんの一瞬だけ、彼女は化石のように動かなくなった。しかし、やがてゆっくり筆が動き出し、口元にも笑みが戻る。
「あっはは。いや、別に私の話なんかいいんですよぉ。私は今日……って、うおああああぁぁー!」
ケージの中の猫たちの視線が、一斉に静音に集中する。彼女の叫びにも似た咆哮は、森中にまで響き渡った。
「そうじゃん! 私、それで今日ここに来たんじゃん! テンション上がりすぎて目的忘れてた! っかー、迂闊だったぁー!」
やたらと音量のある独り言に、「よく通る声だなあ」とのほほんとした奏一郎。
「小夜子のことで話しに来たんですよ、私は!」
「……どうかしたのか? 学校で何かあったのか?」
静音は、神妙な面持ちで口を開く。
「いや、あの。あの子って……ちゃんと笑います?」
「『ちゃんと』?」
「なんて言えばいいのかな……無理して笑うんですよ、あの子。もちろん、本気で笑うときもありますけどー……。辛くても、悲しくても笑うんですよ」
「ほう……」
顎に手をやり、奏一郎が天井を仰ぐ。何か考えているようではあれど、その煮え切らない態度に、静音はさらに捲くし立てる。
「……で、あの子、家族とはバラバラに暮らしてるって言うし……もしかして、なにか辛いことがあっても相談する相手もいないんじゃないかって思って」
「ああ、それでここに来たのか」
納得したように手をぽんと叩くと、ぶんぶんと首を縦に振る彼女。
彼女の頭の中には、今日の廊下での小夜子の笑みがあった。
目を少し潤ませたような、消えてしまいそうな、弱々しい笑み。
「……訊いても、たぶん私には相談してこないかもしれないと思って。せめて一緒に生活してる人には、相談相手になってあげてほしいなって」
「……まさかそれを言うためだけに来たのか? ……君は、優しい子だな」
奏一郎の妖艶な笑みに、静音は一瞬だけ見惚れた。照れたように俯くと、目の前にはまだ塗り途中の絵。膝元に鎮座するこの存在を思い出し、彼女は再び筆を走らせる。
「でも……君も、だろう?」
「えっ?」
素っ頓狂な声を上げる静音の前に、キャンバスを挟んで奏一郎が座り込んだ。
「君も、あまり本気で笑わないな」
「え……」
筆の動きが止まる。
そんなことを言われたのは、初めてだった。
幼稚園児のときから、「よく笑う、明るい子」ということで周りから有名だった。泣くことなんか、ほとんど無かった。転んで大怪我をしたときも、喧嘩をしたときも、男子に意地悪をされたときも、頭を打ったときも、独りで入院したときも、泣かなかった。人前で泣いたのなんか、生まれてきたときぐらいだったんじゃないかと、本気で思っているくらいだ。
なのに。
反論できる、はずなのに。
何も言えなくなったのは、なぜ?
奏一郎が、
「悩む心か……。ふむ、人間らしい」
と、満足げにぽつりと呟いたのを、静音は聞いていなかった。
黒いキャンバスに、灰白色の斑点模様が広がっていく。やがて水たまりのように、それは徐々に黒いキャンバスを侵蝕していった。
静音は少し困ったように、
「……今まで、誰にも話したことなかったんですけど。家族にも、友達にも」
と言うと、へら、と力無い笑顔を見せる。
「って言うか、話しちゃダメなんですよね! こんなこと言ったら、絶対に引かれちゃうし。嫌われたくないですもん。だから、誰にも言えないんですよねー!」
「そうか……」
奏一郎は緩慢な所作で腰を上げると、背を向けて台所で皿洗いをし始める。
「……それは、悲しいな」
その一言が、再び筆の動きを止める。
たった一言放つだけで、どうしてここまで心を掻き乱せるのか……静音は不思議に思った。
「……あはは。じゃあ、奏一郎さんには、特別に話しちゃおっかな。聞いてくれます?」
「ああ」
蛇口の捻る音が聞こえてから、静音はその重い口を開く。
「私ね、好きな人がいるんですよ!」
静音の声は、微かに上擦っていた。
「けっこう前から片想い。……でも、絶対にかなう訳ないし、あっちも、そんなの想像もしてないだろうし。……だから私、無かったことにしたくて。単なる、憧れにしたかったんですよねっ」
灰白色に生まれ変わったキャンバスが、静音の前に現れた。
「……いやあ、でも、それでもたまに苛々しちゃって。それでバンド始めたんですよ! 忘れられるかなって」
「……ああ、でも、その瞬間だけなのか、忘れられるのは」
静音が、唇を噛んだ。それでも、笑みを絶やそうとはしない。
「……私、たまに、小夜子が羨ましくなるんですよね」
「さよが? 何故?」
「小夜子はきっと、普通に人を好きになれるでしょう? 将来は結婚して、子供だって産める。普通に、幸せな生活ができる。……“普通の人と違う”って、結構、苦痛なんですよ」
「…………」




