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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十八章:かわすこと ―皐月・初旬― 其の弐十

 喫煙所に入ることはできないが、近寄ることは辛うじてできる。煙の気配が近づくほどに、その主の声も大きくなってくる。低い。男性だ。ひょっとして、とも思ったが徹のそれではない。


「……あんなに痩せ細って。海外(むこう)でろくな生活できてなかったのかな。お嬢さんとは別に暮らしてたんだっけ?」

 疑問に応える声も、徹のものではなかった。若い女性のものだ。

「そうらしいね。なんで付いていかなかったのかわかんないけど。まあ、難しい年頃だから仕方ないのかもね」

 煙を吐き出すついでに答えている、ように小夜子には感じた。


「案外、連れていかなかったのかもしれないよなぁ」

「ああ。逆に?」

「去年の葬儀の時にも思ったけどさ。お嬢さんの顔、そっくりだったろ」

「うん、びっくりした。あの色素薄い系ね」

「あれだけそっくりだとさ。顔を見て思い出すのが辛い……とか」

「あー、たしかに。今日なんてあの二人、一回も目合わせなかったもん。会話もしてなかったように思う」

「だろ? たぶん、そういうことなんだろ。それに……」


 男の声に興奮の色が滲み始めたところで、肩を叩かれる。振り返ると、伯母が神妙な面持ちで佇んでいた。

「小夜子ちゃん」

 先ほどとは打って変わって、小声で。ちょっと向こうで話さないか、と。


 煙に汚れた空気が、二人分の声が遠くなる。


 ふくよかな背中に付いていくと、外のベンチに誘われた。細かな木目に木漏れ日が降り注いでいる。伯母の隣に腰かけると、向かい風が髪をさらった。

「体に(さわ)るから、喫煙所には近づいたらいかんて」

「は、はい」

 怒られた。というより叱られた。かと思えば眉を八の字に、伯母は再び声を高くしている。


「さっきはごめんなさいねぇ。うちの身内が悪い気分にさして」

 伯母のこの言い方から察するに、先ほど喫煙所にいたのは父方の親戚らしい。

「いえ……ただ、あまり興味もなさそうなのに、あれだけ楽しそうに。噂話みたいに話せるもの、なんですね……」

「…………」

 伯母が黙りこくってしまった。どう返したらいいのかわからないことを言ってしまっただろうか。


「えっと、伯母さん。さっき、あの二人が言っていたことは本当なんでしょうか」

「あの二人? なんて言っとったん?」

「お父さんが海外出張に私を連れていかなかったのは、私が母に似ているからって。顔を見るのが辛かったからじゃないかって……」

「ああ」

 呆れたように顔を覆っている。その感情の先には、先ほどの喫煙所の二人がいるのだろう。


「うん……まあ、ほうね。でも、それだけじゃなくてね」

 認めた後で、伯母が話し始めたのは──小夜子の知らない思い出話だった。笑顔を振り撒く必要も、相槌すら要らない。


「小夜子ちゃんのお父さんとお母さんはね、それはそれは大恋愛だったんよ。聞いたことある? ない? ほうか。……いやね、お父さんは旅先で偶然出会ったお母さんに一目惚れしてね。その場で連絡先聞いて会う約束取り付けて、近くもないのに何度も通いつめて、アタックして……もう見ていて恥ずかしくなるくらいぞっこんだったんよ」


 聞きながら、信じられない思いでいた。父に、そんな情熱的な一面があったなんて知らなかった。


「いざお付き合いが始まって、とうとう結婚の話になった時にね。向こうはけっこう良い家柄のお嬢さんだったから、めっぽう反対されたんよね。それを押しきって結婚したもんだから、当時はかなり揉めて……それでも幸せそうやった、二人とも」


 当時に思いを馳せながら、滔々と伯母は続けた。


「小夜子ちゃんが生まれてからしばらく経ってな、お父さんの勤めてる会社が経営がうまくいかなくなって。何度も転職して、今の会社に腰を据えてからはずっと忙しかって。出張も多いし帰りも夜遅いから、小夜子ちゃんともろくに会話もできんって、私に愚痴ることもあったくらいなんよ」


 物語を聞いているような気分だった。

 少なくとも自分事に思えなかった。遠い、遥か遠く見知らぬ人間の物語に思えた。けれどこれは、まぎれもなく……母の、父の、自分の物語だ。


「だから……お父さんはな、徹はな。事故の時は本当に……自分を責めたと思うんよ。大好きな人が目の前で……助けることもできんで。悲しくて悔しくて、今もまだ、責め続けてると思うんよ」


 涙声を押し殺して、伯母が小夜子に向き直った。ゆっくり口角を上げて、目尻を下げて。ほとんど見たことのないはずの父の笑顔が透けた。


「小夜子ちゃん、本当に大きくなったわ。お母さんに生き写しで。きっとこれからますます似てくる。徹はな、まだ自分のこと許せんから。だからお母さんそっくりの小夜子ちゃんを見るのは、たしかに辛いかもしれん。……八つ当たられたこともあるかもしれん」


 どきりとした。その通りだったから。目を丸くしてしまったかもしれないが、伯母は指摘しなかった。きっと、彼女は知っているのだ。


「ごめんね。けど、大好きなんよ、徹は。お母さんのことも、小夜子ちゃんのことも。それだけはどうか、わかってやってね」


 そんなことを言われても、とか。どうしてその話を今になってするのだろう、とか。ぐるぐると渦巻く感情を、どうしたら良いのかわからなかった。だから、父を捜していると言い聞かせ。小夜子はその場を後にした。化粧の崩れかかっていることを、伯母に暗に伝えながら。


 父がいたのは、先ほど焼香を終えた会場だった。小夜子が入室しても彼は椅子に腰かけたまま。後ろ姿よりも横からの方が、よりいっそう線が細く見える。細い枝、よりも一枚の紙切れのよう。背中も以前よりずっと曲がっているような。 白髪混じりの黒髪が逆光に眩しい。十は年を食ったような、そんな出で立ち。


 しかし視線はまっすぐに、母の遺影に注がれていた。

 少し離れた椅子に、腰を落とす。恐る恐る、まるで幽霊でも見るかのように。小夜子も顔を上げる。


 モノクロの変わらない微笑みが、視界の真ん中に飛び込んできた。


 久しぶりに母に会ったようで、けれどその実感があまり湧かないのは、きっと毎日のように目にしている──ようなもの、だからだ。

 朝、顔を洗う時に。学校でトイレに向かう時に。夜の入浴時だって。


 鏡を見れば、面影が映る。

 垂れがちの目尻。緩く上がった口角。生まれつき柔らかい、色素の薄い髪の毛。


 母にそっくりだと言われた。自分でもそう思う。きっと、父だってそう思ってきたに違いない。


「……小夜子」

 今、存在に気付いたみたいに。父の口が、その名を乗せた。

「元気だったか」

 視界の端に映る男が、朗らかに問う。最後に会った彼とは別人のようで、驚いて。小夜子は頷くことしかできない。

「……そうか。よかった」

 問い返すこともできない。父が元気に過ごしてこなかったことなんて火を見るよりも明らかだ。


 沈黙が重くのしかかる。手持ちぶさたに時計を見れば、食事会もそろそろお開きとなる時間だ。

「……伯父さんが捜してた」

「ああ、そうか。うん、そうだな」


 立ち上がる、その気配に肩が震える。気づかれてはいないだろうか。その不安が、未だに小夜子を立ち上がらせてくれない。扉の前に立ち尽くす彼に、足がすくむ。


「小夜子、話がある」

「……はい」

 声が震える。父は気づいているのかいないのか。一息に続けた。

「来月には、帰国することになった」



 また、一緒に暮らさないか。



 静かに、静かにそう告げられた。どう言葉を紡げばいいのかわからないまま。小夜子はただ、背後の空に思いを馳せる。


 ああ今頃、食材を買いに行っているだろうか。藤のところでミルクティーを飲んでいるだろうか。大きくなってきたフチタローと戯れているのだろうか。

 いずれにしろ、それが彼にとっての日常だ。


 長く、永く一緒にいられたらどんなに幸せだろうと。そこに鮮やかに溶け込んでしまえたらいいと思っていた。

 けれどどうやらそれも、途方もない願いだったらしい。


 色褪せていく。彼の日常から、何よりも先に。



 遺影の母は、変わらず微笑んでいる。

 モノクロの微笑み。


 ──やっぱり、私とお母さんは似ている。


 小夜子は緩く、口角を上げた。

《第十八章:かわすこと 終》



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