第十八章:かわすこと ―皐月・初旬― 其の十八
それからの数日で、奏一郎はいつもの調子を取り戻していった。畑に立ち、朝食を作り、のほほんと時間を過ごす。倒れたのがまるで嘘みたいに。
「疲れが溜まっていたのかもしれない」そう思うと、炊事を小夜子自ら受け持つようになるのも自明だった。監督──奏一郎のことだが、心の中でそう読んでいた──付きではあるが、おかげで腕前はめきめきと向上している。一日に三度も修行があるのだから。
「奏一郎さん、今日もたくさん食べて元気になってくださいね!」
「もう大丈夫なのになぁ」
大量に盛られた白米を眺めつつ、奏一郎がぽそりと口にする。小夜子にとっては、彼がゆっくり休めるようにと心を砕くのが日課になりつつあった。
日課に小休止が訪れたのは、母の一周忌。
早朝、制服に身を包む。今朝はだし巻き玉子、茄子の煮浸し、お味噌汁。昨夜の残り物もある。充分にボリュームのある食事となった。
「さよ、時間は大丈夫?」
「電車のトラブルも考慮して、早めに出ようかと思ってます」
「お花の用意は?」
「お花屋さんに注文してあるので、それを会場でお父さんが受け取ることになっています」
お味噌汁を飲み込みつつちら、と時計を見る。
「もう受け取っている頃だと思います」
うんうん、と奏一郎が微笑んだ。
「さよは本当にしっかりしてきたね」
「そ、そうでしょうか?」
「一年前にここに来た時とは大違いだ」
そうだ、あとたったの数ヶ月で、もう一年になるのだ。
「……気を、張ってるだけなのかもしれません。久しぶりですから」
何が、とは言わなかった。言わなくてもきっと、奏一郎にはわかっているだろうから。
「そんなことないと思うよ? きっと、お母さんもびっくりしちゃうだろうね」
ほら、やはり。父の話題だけは綺麗に避けるのだ、彼は。それを自然にやってのけてくれるのだから、ありがたい限りだ。
食器を片付けて、いよいよ靴を履く。いつもと同じローファーが、今日はいつもとは別の場所へと自分を連れていくのだ。心臓がほんの少し縮んだ心地がした。
「さよ」
名を呼ばれる。振り返ると奏一郎は、実に満ち足りた顔をしていた。朝食のごはんを盛りすぎただろうか。
「きっとね、大丈夫だよ」
なにが、とは言わなかった。
「さよはもう、わかっているからね」
なにを、とは訊かなかった。
本当に縮んでいたらしい心臓が、すっと解かれていく。彼が大丈夫というからにはきっと、大丈夫なのだ。それだけでもう充分だった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
いつものやり取りを終えると、小夜子は今日も背中を見送られていく。穏やかな陽光に身を投じて、やがて──視線を、感じなくなる。
今日の段取りで頭の中はいっぱいだった。駅に到着し、見慣れた二人組を視界に入れるまでは。
何よりも目立ったのは、細身の体躯に似合わない太ったリュック。長い黒髪のポニーテールでも隠せていない。
掲示板に大きなポスターを押し当てる芽衣と、少し離れた所で、純が見守っている。
「もう少し、右側を上かな」
「……どう?」
「うん、いいんじゃない?」
集中している二人の邪魔をしたくなくて、けれど気になって思わずポスターを覗きこんでしまう。
巨大な花火の写真に、大きな文字で刻まれた「楠木納涼祭り」。
「へぇ。お祭りやるんだ」
小さく呟いたつもりが、芽衣の耳には届いていたらしい。反応が早い。
「萩尾さん!」
「……わ、小夜子先輩。どうしたの、こんな早朝から」
答えようと口を開きかけたが、右手で制される。
「あ、わかったからやっぱり言わなくてもいいよ」
「……ああ、そっかぁ。さすがだね」
気遣ってくれたのだろう、今はそれに甘えることにする。
「大会は八月、かあ。けっこう先なんだね」
「うん。って言っても小規模なものだからね、何万発も打ち上げるわけじゃないし……」
「でも屋台とかは充実してるよ。先輩もおいでよ」
「うん、行きたい……けど」
一つだけ、懸念事項が頭を過る。
「浴衣、持ってないし……」
「そんなの、私が貸すのに。たくさんあるよ?」
驚いていると、純が口を開いた。
「うちの母さんの実家が呉服屋でね。小さい頃から浴衣とか着物とか、姉ちゃん宛によく贈ってくるんだよね。一回しか着てないやつもあるんじゃない?」
「い……いいのかな、借りちゃって」
「まあ、色とか柄とかの好みはあると思うから。一度見においでよ」
「うわ~……ありがとう……!」
ふと、時計をみる純。どうやら急いでいるらしい。そしてそれは小夜子も同じだ。電車の時間が差し迫っている。
「それじゃ萩尾さん、またね。気を付けてね」
「うん、ありがとう二人とも。また今度ね!」
嬉しい約束を取り付けてしまった。
一年前の今頃は、きっとこんな気持ちになっているなんて想像もできなかった。笑えているなんて思っていなかった。そうあるべきだとすら、思っていた。
今は。ごはんを美味しく食べられて。花火大会が楽しみで。だいすきな人達に囲まれて、幸せな日々に浸れて。
一年なんて、実は途方もない──目眩がするほどに長いのかもしれないな、と小夜子は思った。




