第十八章:かわすこと ―皐月・初旬― 其の十七
目の前では、いつもの二人の光景が映し出されていた。穏やかな表情。和やかな会話。
自分だけが蚊帳の外にいるのだと。今こうして身を強張らせている自分のほうが異質なのだと、橘は思った。息苦しいなとも。きっとそれは、焦げた匂いのせいなんかじゃなくて。
「……橘さん、どうかしたんですか?」
心配そうに覗きこんでくる褐色の瞳。それを見つめ返すことができない。異様なまでの居心地の悪さが、そうさせてくれない。振り絞って、振り絞ってようやく、
「いや、なんでもない」
そう答えるのでやっとだ。
「さあ、あとは私がやっておきますから、奏一郎さんはもう少し横になっててくださいっ」
「え~、過保護だなぁ」
小夜子が奏一郎の背中を優しく押していく。二人の姿が茶の間に消えた頃。布団の衣擦れが聞こえた頃。まるで見計らったかのように、橘は心屋を後にした。
いや事実、見計らってはいた。今、彼女と二人きりにはなりたくなかった。なる資格なんて、ないとすら。
──同情、なんかじゃない。
そうは思っても、彼女の短命。奏一郎に指摘されて真っ先に頭に浮かんだのはそれだった。つまりそれって、こういうことだろう?
無意識に。知らず知らずのうちに、心の中の深いところで──彼女のことを哀れんでいる自分がいる。どう取り繕おうとも、それに変わりはない。だから奏一郎は言ったのだ。
君のその気持ちは、恋じゃないのでは、と。
違う、違うと。何度も頭を振った。奏一郎に俺のなにがわかるんだ。心臓の音がうるさい。嫌な鼓動だ。この早足を止めたら治まるだろうかとも思ったが、あの焦げた匂いが追いかけてきそうで、できない。
ふと思い出すのは、焦がしてしまった卵粥だ。悪いことをしたのに、ちゃんと謝れなかったのが悔やまれる。そしてそれに紐付けて、あの二人の先ほどのやり取りが頭の中では展開されていた。
そうして、気付いた。足を止める。焦げた匂いは追ってこない。振り返っても、追いかけてくる者はいなかった。
「……そう、か」
ぽつり、独り言をこぼして。納得する。
「同情って思ったほうが……気楽、だよな」
再び一歩、踏み出す。打って変わって、足は軽くなっていた。重りを外したみたいに。そんな自分に、嫌気がさすほどに。
* * *
橘が姿を消したことに最初に気が付いたのは、小夜子だった。静かな台所には香ばしさだけが取り残されている。もう一度お鍋の蓋を開けて、少しだけ中身をかき混ぜる。焦げたのは鍋の底、ほんの一部のようで、少しほっとする。ふわふわの卵。刻んだネギも照りを返し、十分に美味しそうだ。まだきちんとお礼も言えていないのに、どこへ行ってしまったのだろう。そう思いながらお粥をよそう。
使ったまな板が既に洗われているのには、さすがだと思った。
「橘さん、帰っちゃったみたいです」
横たえた奏一郎にそう告げると、さして驚くでもなくへえ、と短い返事。
「珍しいことだ」
「……まさか喧嘩、とか。奏一郎さん、なにか傷付くようなこととか言ってないですよね?」
小夜子は目が覚めた後のことを思い出していた。起き抜けで会話は聞き取れなかったが、橘の表情が固まっていたこと。奏一郎は微笑んでいたことは確かだ。ついこの間だって、桐谷とトラブルを起こしたばかりではないか。
「どうだろう。傷付けるつもりはなかったのだけれど。もしかしたら余計なこと、だったかもしれないね」
「もう、だめですよ、ちゃんと謝らなきゃ……」
くすくす、と奏一郎は笑った。笑い事ではないはずなのに。
「傷付けたから謝るの?」
「そうですよ!」
「じゃあ、さよも謝らなきゃ」
「え?」
ぽかんとしてしまう小夜子。おそらくはその表情に、さらに目尻の皺を深くして。
「僕たちは二人で、彼を傷付けたんだから」
いよいよ小夜子は開いた口が塞がらなくなった。自分は何もしていないはずだ、と瞬時に思ったのだから余計に。けれど奏一郎は断定的な物言いではなかった。「かもしれない」とは言わなかった。
小夜子が口を開きかけたのと、彼の言葉が聞こえてきたのは同時だった。
「今日は心配をかけて、悪かったね。食べ終わったらもう少しだけ休むことにするよ」
にこり、二の句を継がせない笑顔。それ以上はもう、何を言っても答えてくれないような気がして。そしてきっとこれは、気のせいではないのだ。
「……おやすみなさい。洗い物、してますので。食べ終わったら食器はそのままにしておいてくださいね」
「ありがとう」
言葉も、笑顔も。いつもならきっと胸の内に響くのだろう。宝箱にしまっておいていたくなるくらいには、目に焼き付けておくのだろう。しかし今は違った。響くことも、焼き付けるものもなかった。
焦げ付いた鍋に少しだけお湯を張り、泡立てたスポンジを何度か擦り付ける。見た目よりも根深いようだ。スポンジの裏が黒く染まるだけでほとんど焦げは取れていない。焦ってしまう。時間が経てば経つほど、鍋の底に深く刻まれていくような予感がしてしまう。
「簡単には、消えてくれないものなんだなぁ……」
ため息混じりに独りごちた、その時。頭に思い浮かんだのはなぜか、橘の顔だった。呆れ顔、不器用な笑顔に困り顔。すべてが走馬灯のように頭の中を駆け巡る。そしてその最後には、あの日の背中。目線を合わせることなく向けられた後ろ姿。
手を伸ばしたいと思った。伸ばさなかったことをずっと、後悔していた。
洗い物をしている間にも、それらは繰り返し駆け巡って。なかなか消えてくれそうになかった。
深く刻まれたものは、簡単には消えてくれないものなのだと小夜子は知った。
──……橘さんの傷も、ひょっとしたら。
思わず手を止める。
傷付けるつもりなんてなかった。傷付けたかったわけでもなかった。けれどもし本当に、二人で傷付けたのだとしたら。どう贖えばいいのだろう。あんな優しい人を傷付けた罪は、どう償えばいいのだろう。謝ってしまえば、きっと許してくれはするのだろう……癒えぬまま、隠したまま。
──橘さんのことを考えると、胸が苦しい。
そういえば初めて会った時、彼はこう言ってくれていたっけ。「奏一郎との間で問題が起こったり心配なことができたりしたら連絡をくれ」「力を貸す」と。
もし目の前にタイムマシンがあったら戻りたい。あの暑い夏の日に戻れたら、きっとこう訊くのだ。
──あなたとのことは、誰に相談したらいいんですか?




