第十八章:かわすこと ―皐月・初旬― 其の十六
視界がぼやり、揺らめく。自分は今、何を考えたと。最低なことを考えなかったかと。焦燥が頭の中を真っ白に埋め尽くす。心の内ではいくつもの言葉が飛び交うのに、どれも掴めない。感触すら残さずに指先を器用にすり抜けていく。早く、早く真っ白なそこを上塗りしなくてはいけないのに。
「……なんで。おまえにそんな風に言われなくちゃならないんだ」
「うん? だってずいぶん前から好きなんだろうに、告白も何もしないものだから。不思議に思っても無理はないだろう?」
ああ、こいつは本当に何も知らない。何もわかっていないんだ。人の心を。
そうしたくてもできない理由があるのだということを、そしてその理由が自分であることも。察することすらできないんだ。
クリアになってきた視界。飛び交う言葉の端っこを、ようやく指先が捉え始めた。
「……告白だの。愛してるだの。それだけが……そういうのを伝えるのだけが、愛じゃないだろ」
真っ白な頭の中、不思議と己の口はそんな言葉を紡いでいた。自分以上に真っ白なのだろう彼の心に、響くとは思えなかったが……それでも橘は続けた。本心を口にするのを、続けた。
「相手の幸せをただ、静かに願う……そういう、そっと見守るだけの愛だって、あるだろ」
見れば、きょとん。ほら、案の定だ。わかっていない顔をしている。
けれど一度、まばたきをすれば。爛々と光り始めた碧眼。何日も探し続けて探し続けて、ようやく久々の餌にありつけるとでも言いたげな──貪欲な輝きを放って。
「なぁに、それ。どういうこと? 教えてよ。初めて聞いたよ」
僕の知らない心だ。
そう呟いて、奏一郎は距離を詰めてきた。一瞬のことだった。手が胸にそっと重ねられる。ただそれだけなのに。脳裏によぎったのはそのまま心臓を喰い破られるイメージだった。恐怖で声が出ない。初めて会った時に感じたそれとは段違いの、遥かに凌ぐほどの──!
「奏一郎さん……? ……よかった、歩けるんですね」
眠気をまとった声に、殺気が霧散していく。頬を綻ばせる小夜子。眠たげな目をこすりながら。
「ああ、心配かけたね。でも珍しいね。さよがこんなに早く目覚めるなんて」
「ふふ、なんだか良い匂いがするなって思っちゃって……って、ああっ!」
驚きに見開かれた小夜子の目。
「火……っ! 焦げてます!」
コンロに駆け寄り、急いで火を止めている。開かれた鍋の蓋。もくもくと上る白い煙。中を見た彼女の表情は渋い。
「う~ん。な、なんとかなりま、す……?」
「す、すまん」
火を点けっぱなしで話してしまっていた。橘にとっては人生でそう多くないうっかりだ。
「二人して気が付かないなんて、なんだか珍しいですね。なにを話してたんですか?」
「うーん、秘密」
「もう。またそれですか……」




