第十八章:かわすこと ―皐月・初旬― 其の十壱
「忘れられるのは、やっぱり悲しいですから!」
彼女の目には、奏一郎が驚いたように見えた。細めていたはずの碧眼を、大きく見開かせているから。夕日色に染められているのをはっきりと認識できるくらいに。しかしそれもほんの束の間のこと。やがては瞼で覆い隠して。口角をゆるり、上げながら。
「忘れないよ」
ああ、断言してくれたと。ほっと胸を撫で下ろした頃だった。
「じゃあ。さよも忘れないでね」
表情も、声色も変えることなく、彼がぽつりと呟いたのは。
落とされる。安らいだ心の内に、たった一滴。波紋となって広がり、揺れる、揺らぐ。
同じことを言っているはずなのに、なぜ彼の言葉には約束めいた響きがつきまとうのだろう。強制的で逃れられない。誓いにも似た──呪いのような。
「だってそうじゃなきゃ、『ふぇあ』じゃないでしょう?」
ゆらゆら、ゆらゆら。
「さよ。忘れるというのはね、思い出さなかったということだよ」
ゆら、ゆら。ゆら、ゆら。
電車に揺られながら、心の隅っこで小夜子は思い出していた。初めて会った時もそうだったと。天国と地獄を往復させてくれる。奏一郎という人は決して、安心させてはくれないのだ。そのままでいさせてはくれないのだ。ぱらぱらと撒いていくのだ。知らないうちに。小さな小さな不安の種を。
* * *
心屋への道を歩く頃には、街灯がぽつぽつと灯り始めていた。紫色の空にはまだ、夕日が微かに滲んでいる。
「今日は何を作ろうかなあ」
「……あ。私も一緒に作ります!」
「何か食べたいものはある?」
「えっと、お昼ご飯が洋食でしたもんね。でも和食が一番落ち着くというか……」
他愛のない会話をこなしながら、小夜子の意識は鞄の中に注力されていた。ずっと身に付けているのは気恥ずかしくて、かといって捨てたくなくて。ハンカチでふわりとくるんだ指輪。潰れてしまわないよう、いつもより歩き方は緩慢だ。
「……おや。たちのきくんじゃないか、あれ」
「え?」
夜目がきくのだろうか。街灯にも照らされていない黒い影。それが橘であると、彼は遠くからでもわかったようだ。紙袋を提げていることだけは小夜子にもわかるのだが。
「たちのきくん、こんばんはー」
薄闇の店先で佇んでいた橘。二人揃っての帰還に驚きと、何か──複雑な表情を浮かべている。
「いらっしゃい。君の方から店に来るなんて、最近じゃ珍しいね」
「ああ。実家から大量に漬け物が届いてな。一人じゃ消費しきれないから貰ってくれないかと思って」
実家と彼は言ったが。おそらく叔父夫婦のことを指すのだろうなと小夜子は思った。紙袋の大きさから察するにかなりの──。
「一人でちまちま食べて、桐谷や静音の家にも届けて、ようやくこの量だ。さすがに職場で配るのは難しいからな……」
「それはありがたいけれど。なんで一人暮らしの君にこんなに送ってくれたんだろうね?」
「……厚意、というよりは。俺にプレッシャーをかけているつもりかもしれないな」
「ぷれっしゃあ。よくわからないけれど、大変そうだな?」
橘の言わんとしていることが小夜子にもわからないので、感想は以下同文だ。
「急に来て悪いな。行けばいるだろう、くらいに思っていた」
「ああ、いや。今日はたまたま出かけていたのさ」
答えながら、店のシャッターを開く奏一郎。
あ、気まずい。気まずくなる。この後の話の展開を予想して。小夜子は一人、店内に走っていった。
「電気、点けてきますね!」
暗闇の中、スイッチを手探り。その間にもやはり、二人の会話は展開されていく。
「……出かけてたのか、二人で」
「うん、まあ。デートだね」
「へえ……ああ、そう……」
軽やかに返す奏一郎、重々しい表情の橘。二人がオレンジ色の灯りに照らされる。ああ気まずい。何も後ろめたいことをしているわけでもないのに、内臓が締め付けられる思いだ。
「これから夕食を作るところなんだ。食べていくかい?」
「遠慮しておく」
「しなくていいよ?」
きっぱりと、さっぱり。果たしてどちらが折れるのだろうと見守っていたその時だった。
唐突に、だった。前触れなんかなかった。前兆なんかなかった。
太陽が沈み行くみたいに。マリオネットの糸が、切れたみたいに。
奏一郎が、倒れた。




