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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十八章:かわすこと ―皐月・初旬― 其の十

 小夜子が胸をときめかせている間にも、奏一郎は子供たちの集団に混じっていった。知らない大人だから無理もない──というより賢明ではある──が、子供たちが警戒していることは遠巻きに見ていてもわかった。しかし、

「僕ね、ばすけ? というものをしたことがないんだ」

「まじか」

「まじかこの大人」

 たったひとつの暴露で、いとも簡単に彼らと馴染んでしまったようだ。まずはパスの練習から、ドリブルの仕方やボールを持つ手首の角度までも教わっている。初めてバスケをするのだ、見よう見まねで最初から上手くいくはずもなくて。シュートをあらぬ方向に外しては子供たちの笑いを誘っている。


 冷静に考えてしまえば、何の脈絡もなしの突然のデート。電車の乗り方も切符しか知らないのも。たんぽぽの指輪も。バスケで子供たちに笑われているのだって。全然スマートじゃない。けっこう格好悪いのかもしれない。そう思ってももう、彼の屈託のない笑顔ひとつで帳消しになってしまう。愛しいとすら思ってしまう──我ながら重症だとも。


「さよー」

 彼の声が、名前を呼ぶ。腰を抜かしたはずなのに、不思議と足に力が入る。

「さよもおいで?」

 迷わず素直に従ってしまう。まるで犬みたいだ、と小夜子はふっと笑みを漏らした。

「はい、何ですか?」

「さよもやってみなよ、はい」

 手渡される、固い感触。意外とずっしり。こと球技においては得点係ばかり務めてきた。ボールに触れた回数なんてそう多くもない。


「わ……私もバスケ、やったことないです、ほとんど」

 子供たちにどよめきが走る。

「うっそだー! 大人ってバスケやんないの?」

「こんなに楽しいのに!?」

 そうか楽しいのか……とボールを見つめる。けれど同時に、そうなんだろうな、と納得もする。いつだってそうだった。憧憬の中の彼らはいつも楽しそうだったから。


 ごくり。喉が上下する。


「……わ、私もやってみてもいい、かな!?」

「いいよー!」

「手の形はこう! 足は少し開いて……」

「膝を少し曲げるのと、背中丸めちゃダメ!」

 小さなコーチが何人も付いてくれている。傍らにはにこにこと、それを見守る保護者まで。なんだか小学生に戻ったみたいだ。走っているわけでもないのに、心臓がうるさい。


 頭の中は、コーチに教わった手順でいっぱいだ。

 両足を開く。膝を軽く曲げる。肘は開かずに。ボールを、リングに送り出すような気持ちで。

 ふと、ボールが手元を離れる刹那のことだった。風に揺れたたんぽぽ、くすぐったい薬指。ほんの少しの動揺が功を奏したのかは知れないが──リングにスポッと、ボールが吸い込まれていった。

「は……入りました!」

 信じられない気持ちで目を見開くと、コーチ陣の目もきらきらと瞬いている。

「も……もう一回やってみてもいい!?」

「がんばれー!」

 声変わり前の声援に、少しだけ肩が張ってしまう。ふわり、飛んでいく。二度目のシュート。今度はリングに一度バウンド、そのままくるくると周回し……やがて、すぽり。

「おねえさん上手!」

「こっちのにいちゃんより上手!」

 にいちゃん……こと奏一郎は、その評価に唇を尖らせているけれど。


 憧憬に混じる。憧憬に、現実(いま)が重なる。

 背景は青空。BGMは子供の声。離れていくボール。高鳴る心臓。揺れるリング。すぽり、心地の良い音を立てて。


 ──ああ、なんて……なんて気持ちいいんだろう!



* * *



 空いていたのが幸いだ。帰りの電車は、奏一郎の希望に沿ってボックス席に座ることになった。進行方向の窓際の席に小夜子を促すと、彼はあろうことかその向かいに腰かけた。せっかく確保した席なのに、景色を見送ることになってしまうのは特に気にしていないようだ。


 腰かけると、先ほどまで体を動かしていたことが夢のように思えてしまう。けれど、

「腕の節々(ふしぶし)がもう痛いです……」

 この痛みが現実だったと教えてくれる。

「ふふ、良い子達だったね」

「本当ですねぇ」

 膝の先が、こつんと触れ合う。ただそれだけのことのはずなのに、恥ずかしくなって腰を引いてしまう。けれども足元に気を取られている場合ではなかった。するり、掬われる前髪。何事かと思わず目を瞑ると、彼が無邪気に見せてきたのは白く、頼りない綿毛だった。

「付いてた」

 撫でられるかと。嬉しいとまで思わされてしまった。思わず、下唇を甘噛み。


 窓をほんの数センチ開いて、奏一郎が掌を差し出す。激しい風に耐える間もなく、それは慌ただしい旅立ちを終えた。夕空に馴染んで、溶けて。とっくに見えなくなっているはずのそれを、奏一郎はいつまでも見送っている。


 突如、理解した。ああ、きっと。これまでも彼は、こうやって見送ってきたのだろうなと。

 窓から見える並木道。過ぎ去っていくいくつもの木々。同じ景色を見ているはずなのに、見え方はきっと、全く同じではないのだ。


「……奏一郎さんは、これまでに関わってきた人のこと、全員……覚えてますか?」

「覚えているよ。人数は数えきれない……なんて言うと、少し大げさな程度かもしれないけれどね」

「思い出すことはありますか? 例えば、例えば、家事をしていたり。一人でいる時とかに、ふっと思い出すようなことはありますか?」

 早口になってしまった。けれど、答えが早く知りたくて。どうしても知りたくて。


「毎日ということはない。時々なら、そうだね。あの人はあんなことを言っていたなあ、とか。あの人からこんな言葉をもらったなあとか。そういうのなら」

「そう、ですか」

 わずかなれど。ほっと息を吐いてしまう。


 会話の間にも、木々は過ぎ去っていく。小夜子はまだ、安心しきれてはいなかった。奏一郎にとっての自分は、あの何の変哲もないひとつの木に過ぎないのではないかと思って。やがて……じっくりと長い時間をかけて、小さくなって。記憶の彼方に見えなくなって。もしかしたら思い出されることもなくなってしまうのではないかと。


 ならば、せめて。

「……奏一郎さん」

 残酷なことかもしれなかった。こんなことを言うのは、エゴでしかないのかもしれなかった。けれど、言わずにはいられなかった。


 せめて、奏一郎に自分を刻みたいと……願ってしまった。


「私のこと。どうか……どうか。忘れないで、くださいね……」


 上手に、笑えていますようにとも。

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