第十八章:かわすこと ―皐月・初旬― 其の九
過去になるのだと、そういうものなのだと思っていても。それでも聞きたいのは奏一郎の答えだった。縋ってしまう。何かもっと他にないかと。そうでないと困る。
……けれど奏一郎の答えは、
「うーん、そうだねえ。わからないなぁ」
至ってシンプルで、ごくありふれたものだった。
「死んだことがないからね、さすがに」
「それは……そうですよね。すみません、変なことを訊いてしまって」
これも拍子抜けというのだろうか。どんな答えを望んでいたのかは自分でもわからない。が、期待をしていたのは確かだ。行き場のない焦り。迷子みたいな感情を、あるべきところへ導いてくれるのではないかと。
花冠でも作るのだろうか。たんぽぽを一輪摘んだ奏一郎。すると思い出したかのように、
「ああ、でもね」
奏一郎が口を開いた。
「こうなんじゃないかな、こうだったらいいなーって。そういうのならあるんだよ」
「そ、そうなんですか?」
「うん、死んだことこそないけれど。見送る人が多いからね、僕は」
そんなとんでもないことをさらりと言いのけて、彼は笑った。
さわさわと、風が頬を撫でる。
「ねぇ、さよ。生まれ変わりって信じる?」
「……生まれ変わり」
バスケットボールの弾む音。賑やかな子供たちの声。
「どうなんでしょう。あまりその、詳しくないんですけど。死んじゃった後に、また別の生き物として生まれてくるっていう、あれですよね?」
「そうだよ」
目の前の川は相変わらず流れを止めることはなく。遠くの視界で、魚が跳ねた。
「僕はね、たくさんの人と巡りあって。……同じ数だけ見送ってきたから。生まれ変わりというのはきっと、あるのだと思う」
きらきら、きらきら。目を細めてしまうくらいには、水面の光が眩しい。
「けれど人は、この世を去ってすぐに生まれ変わるわけじゃない」
突如。激しい風に全てが巻き込まれていった。穏やかだったはずの水面の光。驚きに満ちた子供たちの声。人の手を離れたバスケットボール。思わず閉じた目蓋の向こう、草花が大きく揺れているのを耳が捉えていた。しんと静まり返ってから、しばらく。ようやく小夜子は恐る恐る、固く閉じられたそれを開けるだけの勇気を得たのだった。それから、
「……うん。きっと、こういう感じだ」
思わず、息を飲んだ。
たんぽぽの白い綿毛が、青空に向けて飛翔を始めていたのだ。強い風に急かされて。穏やかなそれに乗せられて。その小さな体で大空に挑んでいくと──やがて見えなくなった。目立たない、音もない。静かな旅立ちだ。
「さよ」
綿毛みたいに、白髪を風に乗せ。
「人に限らずだけれど。死ぬというのはきっと、こういうことなんだ」
空色を瞳に宿して。奏一郎はいつまでも、もう見えないはずのそれを視界に捕らえて離さない。
「溶けて、馴染んで。世界の一部になるのさ。星になるとか、風になるとかもよく聞くけれどね。きっとどれも正解で……ううん、本当は正解なんかない。でも、それでいいんだ」
答えがないほうがいい、なんて。そんなのは困る。なぜならそういつかは誰もが──自分だって──その道を辿るのだから。老いて、逝く。奏一郎を置いていくのだから。彼を置いて自分はどこに行くのか、何になるのかもわからないだなんて。
「すみませーん、取ってくださーい」
ふと、腕白な声が意識を掠め取っていく。見れば、風に煽られたらしいバスケットボール。そしてそれを追う少年が、勢いを殺しつつもこちらに向かってきた。先に立ち上がる奏一郎。器用にボールを片手でいなすと、にぱり。まるで幼い子供のような笑みを浮かべ始めた。
「ねえ……さよ。あの子達と一緒に運動してきてもいい?」
「え!?」
「さっき野球を見てからどうも、体を動かしたくなってしまってね。どうせなら混ぜてもらおうかなと思って」
「あ、そ、そうなんですか。どうぞどうぞ……?」
「ありがとう、すぐ戻るよー」
どうかこの人が不審者に思われませんように。奏一郎の笑顔の前では、もはやそう願うしかない。
「あ、そうだ。これあげる」
徐に取られた左手。あまりに突然のことで、赤面している暇もない。全ての神経がそこに集中しているみたいに。薬指に走るくすぐったい感覚に、ただただ目を丸くしてしまう。
「じゃ、行ってくるねー」
白い睫毛でアーチを作ったかと思えば、奏一郎はひらりと子供たちのところへ走り去ってしまった。ぽつん、取り残された小夜子。デートの最中に放置されるなんて……と、きっとここは怒髪天を衝くところなのだろう、正常ならば。
しかし今の小夜子は正常ではなかった。正常でなんていられなかった。
左手の薬指には、指輪がはめられていた。
とはいっても銀製でもプラチナでもない。黄色のたんぽぽで作られたそれは、小夜子の白い肌にたいそう映えた。
たんぽぽがそこにあったから。たまたま一輪摘んだから。ちょっといじってみたら指輪ができたから。きっと、奏一郎にとってはそれだけの──特に深い意味なんてない。そうわかってはいても、腰を抜かすには十分だった。
足に力が入らない。胸の鼓動が邪魔をして。




