第十八章:かわすこと ―皐月・初旬― 其の八
しばらく歩き続けると、傍らには大きな川が広がる。足元のコンクリートもいつの間にか砂利道へ変わっていた。自転車だったり、ランニングをしていたり。追い越し追い越され、行き交う人々。駅前と違って、ここは昔と変わらない風景を保っている。
この道をまっすぐ行けば、かつての自分の家がある。すでに屋根どころかマンションの全体が遠くに見えているほど。
……足が重い。異様なほどに。水に囚われたみたいに。
「さよ」
呼び止められ、足が止まる。どうしたのかと振り返ると、奏一郎は土手に向かって歩き始めていた。
「あ、危ないですよ!」
「大丈夫だよー」
勾配をものともせずに土手に足をかける。肝が冷える思いで見つめるのが精一杯だ。それとは裏腹に、
「ほら、たくさん咲いてる」
無邪気に彼が見せてきたのはたんぽぽだった。どこにでも生えていそうな、何の変哲もないたんぽぽ。爽やかな黄色を空に伸ばすものもあれば、綿毛に切り替えて旅の準備をしているものも。
「もう、あまり心配させないでください……」
ほっと胸を撫で下ろす。奏一郎が土手に腰かけるので、注意深くながら小夜子もそれに続いた。緊張していたらしい足首も、ほんの少し息を吐く。
土手の下に目をやると、小学生くらいの男女のグループがバスケをしていた。ゴールは一つだけ。ボールの奪い合いとシュートの応酬。機敏な動きに思わず見とれてしまう。
ああ、そういえば、と小夜子は思い出していた。母と買い物に行くと、帰り道にはいつもこの道を歩いた。同級生たちがバスケで汗を流しているのを横目で知りながら、それを意識しないようにして。
「今日の夕飯はなあに?」
なんてありきたりな質問で、本心を隠した。母を傷付けまいとしていた。自分よりもなぜか、母の方がよほど辛そうに彼らを見つめるから。
「さよ」
現実に、現在に引き戻される。傍らには奏一郎。辛い、悲しい。そういう感情とは縁遠い表情で。
「さっき、なんで危ないって言ったの? そこまで急な坂というわけでもないのに」
「あ。えーっと、ずいぶん前に話しませんでしたっけ。天体観測するときに河原で転んだって」
「ああ、言ってたねぇ」
「それがちょうど、ここなんです。土手で転んでそのまま、すってんころりんです」
くすくすと奏一郎が笑う。
「そ、奏一郎さんは笑いますけど、当時はすごい緊迫してたんですよ! 大きな怪我こそしなくても、親の目の前でゴロゴロ転がってしまったから……余計に心配をかけて……」
あの時、一目散に駆けつけてくれたのは父だった。何度も、何度も名を呼んで。さよ、さよ、と──。
「……再来週、お父さんが帰ってくるんです」
唐突に、ぽつりと落とした言葉でも。奏一郎は拾ってくれていた。
「そう。一周忌かな?」
「はい。お父さんや親戚の予定がなかなか合わなくて延びてしまっていたのですが……再来週に決まりました」
会うのは何ヶ月ぶりだろう。メールでのやり取りを最後に交わしたのも昨年のこと。本来は父を呼ぶべきであろう三者面談にすら呼ばなかった。いや、呼べなかった。
「ここ最近、カレンダーばかり見てしまうんです。意識しないようにしても、つい目が向いて。……ああ、お父さんと会わなきゃいけないんだなって」
「怒っているの?」
奏一郎の問いに、数回の瞬きをしてしまう。
「怒っている、ですか?」
「なんとなく。怒りと悲しみは、お隣さんだから」
僕にはわからないから、と付け加え。そのままに彼は続けた。
「喜ばしいことだと思うけれどね。怒れるだけの元気が出てきたってことだから」
怒りと悲しみはお隣さん。彼のさりげない一言を耳に響かせながら、小夜子の思考はひとりでに走り出していた。
怒っている、とはなんだろう。自分は父の何を許せないのだろうと。……何を許せばいいのか。
「ところで、さよのお母さんはどういう人だったの?」
気遣ってくれたのか、興味本位かは計り知れないが。奏一郎の問いのおかげで、思考はひとまずおあずけだ。
「優しかったですよ。でも、成績には厳しかったです。……私が運動できない分、勉強をがんばらせようとしていたのかも。あと心配性で、危ないからって私を火から遠ざけたりして……」
少し、鼻がつんとする。ああ。何を話しても過去形になってしまう。記憶を掘り起こさなくてはいけなくなってしまう。仕方のないことだ、どうしようもないことだ。人が死ぬとはそういうことだ。
背後から風が通り抜け、髪を拐う。おかげで表情を見られないのは救いだった。目には見えないそれを遠い目で見送っていると──その最中にもふわり、疑問が運ばれてきた。
「……奏一郎さん。人は、死んだらどうなるのでしょう」




