第十八章:かわすこと ―皐月・初旬― 其の七
久しぶりに降り立った駅はどこか懐かしい感覚がした。アスファルトの感覚、まだ足が覚えている。ホームドアの設置されていないまっさらなプラットフォーム。
何も変わっていないだろうと思っていた地元の駅。改札を出てみれば、昔によく行っていた個人経営のケーキ屋が、全国チェーンの有名な看板にすげ変わっていた。その隣にはフィットネスクラブ。たしか何もない空き地だったはずなのに。ああ、あそこの剥き出しになっていたタイルも綺麗に直っている。もうあそこで躓くこともないのだろう。
この土地を離れてから八ヶ月。たった八ヶ月でこんなにも様変わりしていたなんて。地元の駅のはずなのに初めて来たところみたいだ。つい先ほど懐かしいと感じたあの感覚は、どこへ行ってしまったんだろう。
「さよ?」
名を呼ばれ、はっと意識を取り戻す。そうだ、まだデートの途中だったと。どこだ、どこへ連れていけばいい。……情けないことに、何も思い付かない。
「あの。ここってほんとにショッピングモールとか映画館なんかもないですし、連れていけるところなんてないに等しいのですが……!」
「うんうん。なるほどね。それじゃ、適当に歩いてみたいな」
拍子抜けしてしまう。まさかのお散歩コース。しかも奏一郎に決めさせてしまった。
「お、お散歩でいいんですか?」
「うん? さよと歩くだけでも楽しいよ、僕は」
よくもまあ、そんなことをあっけらかんと言えたものだと小夜子は思う。きっと奏一郎本人にとっては何てことのない一言だったろう、とも。そのたった一言が、嬉しいのだけれど。とても嬉しいけれども。何も言い返せなくなるくらいには。
「……こっちの気持ちも知らないで……っ」
「さよの気持ちって、何? 聞かせてよ」
「なんでもありません、独り言です!」
少しだけ早足に小夜子は歩き始めた。のほほんと、奏一郎がその後を追う。
歩を進むごとに、赤くなった頬を地元の風が撫でていく。……やがて、冷静になる。ほら、また。奏一郎の言葉が頭の中に渦巻いて。
──「さよの気持ちって、何?」──
ぐるり。ぐるり。ぐるり。ぐるり。
──……私は、奏一郎さんとどうなりたいんだろう。
ぐちゃぐちゃと散らかったままの心の中、隅っこに隠していた。大切にしまっていた。けれどずっと放置してしまっていた、奏一郎への想い。なぜ放っておいたかなんて、答えは一つだ。
……整理するのが、怖いから。
* * *
「適当に歩いてみたい」と奏一郎は言ったけれど、それって実は簡単じゃないと小夜子は思う。狭い町じゃない。いくら生まれてからずっと住んでいたからって、知らない所だってあるに決まっている。ゆえに知り尽くしている場所へ足が向いてしまうのも、無理からぬことであった。
「えっと、昔通ってた小学校です」
「へぇ、やっぱり高校と比べると校舎が小さく感じるね」
たしかにな、と小夜子は思う。六年間も通っていた割に、その小ぢんまりとした校舎に今更ながら驚きを覚える。塗装し直したのか、昔に通っていた時よりも真っ白な印象だ。校庭では野球少年たちが声を出し合っている。休日も走り回るなんて元気なことだ。
「さよは小学生の時、どんな子だったの?」
「どんなって……ええと。記憶もあやふやですがたぶん、おとなしかったと思います。特に取り柄もないですし、もう担任の先生たちも誰も覚えてないんじゃないかな……って」
言い終わりかけたその時。ああ、そんな返答じゃダメだと。自分の心の中で誰かが呆れていた。
「……あ! でも習字は得意でした! 県のコンクールで何度か賞をいただいたりしましたし! お母さんもよく誉めてくれて……!」
「ほう」
カキン。バットがボールを捕らえた音。瞬間、心奪われて。嫌な思い出もセットで甦る。
「……壇上に上った時に階段で転けて、全校生徒に醜態を晒したんでした」
「ふふ、うんうん。さよはね、そういうことしそうだよね」
奏一郎が笑う。微笑ましいとばかりに。それに少しだけほっとする。
──ああ、あの時。あの場に奏一郎さんがいたとしたら。きっと同じように笑ってくれたんだろうな。
「……私がもし先生になったら。誰かが失敗しても、ドジを踏んでも。奏一郎さんみたいに笑って許してあげられる人になりたいです」
「なれるんじゃないかな。なろうと思っていれば。思い続けていれば」
「……時間はかかりそうですね」
「いいんだよ、かかっても。若いからね、君たちは」
ぽつり。彼は小さな言葉で、大きな壁を築いていく。……時間の壁。
カキン。少年たちの声がグラウンドに響く。きっと自分が大学を卒業する頃には、あの子たちも小学校を卒業しているだろう。もしかしたら中学校に入学しているかもしれない。……けれど傍らの彼は、彼だけは変わらない。何一つ変わらずに。
「えっと……そろそろ移動しましょうか!」
先に歩き始めたのは小夜子だった。その後ろに奏一郎が続く。彼は野球を初めて見たようで、興味深そうにネット越しの彼らを見つめている。




