第十八章:かわすこと ―皐月・初旬― 其の四
長期休暇期間ということもあってか電車の中は混雑していた。隣の奏一郎の指先に、己のそれが時折触れるくらいには。電車が揺れる度、心臓も揺らぐ。
都心に近づくにつれ、奏一郎を奇異の目で見る者は少なくなっていった。ぱっと視界に入れた後はもう、スマホの画面とにらめっこ。小夜子にとってはその無関心さがかえってありがたかった。
「それにしても奏一郎さん、そういう洋服も持ってたんですね」
あくまで小声でそう話しかけると、よくぞ聞いてくれたとばかりに奏一郎が微笑んだ。
「ううん、持ってたわけじゃないよ。先週、さよが学校に行っている間に買ってきたんだ」
「そうだったんですか」
平静を装いながら、じわりと浮かび上がる喜び。思い付きの……単なる気まぐれではないのだ、このデートは。そう思って。
「たちのきくんからスーツを借りて以来、洋装は少し遠ざけてしまっていたのだけれどね。……これもトラウマというのかな」
「え、なんでですか?」
「前にも言ったろう? 彼、意外とスパルタなんだよ。ネクタイの締め方を教わった時なんて首を絞められるかと思った」
恐らく何度教えてもネクタイを締められない奏一郎に、橘も業を煮やしたのだろう。けれど、
「今回はスパルタじゃない人が着方を教えてくれたからね、トラウマも克服できそうだ」
……当の本人はどこ吹く風だ。
「……実はさっき、奏一郎さんってすぐにはわからなかったんですよ」
「待ち合わせのとき?」
「はい。やっぱり雰囲気が違いますから……初対面の人と話してるみたいで今も少し、落ち着かないです」
電車が揺れて、指先がちょんと触れ合う。小声での会話。誰も聞いてはいないだろうに、まるで内緒話をしているみたいだ。揺れる車内、漂う空気、彼の囁き。すべてが落ち着かなかった。
「うーん」
天井を見上げる奏一郎。中吊り広告に視線を据えるも、きっと考えていることはまったくの別物。
「そうだね、わかるよ。僕も少しだけ落ち着かないかもしれない」
にこり、いつもの穏やかな笑みを浮かべながらそんなことを言う。表情と言動の不一致に、嘘だ、と笑いたくなるけれど。
「今日のさよ、一段とかわいいからね」
……笑顔なんて。笑みを浮かべる余裕なんて、容易く奪われてしまった。
「奏一郎、さん。あの、お世辞でも嬉しいです、ありがとうございます」
「ん、お世辞じゃないよ? 本気でそう言っているのに、どうして伝わっていないのかな……」
目を丸くして心底不思議そうに、奏一郎が言うので。心なしか、どこかから好奇の視線を感じるような。本気で止めてほしい。せっかくの無関心めいた空気を乱すのを止めてほしい。
たしかに服を選んだ時だって、当然ながら意識はした。子供っぽく見られないように、かといって変に大人っぽくならないように。けれど突き詰めてしまえば結局は、「かわいい」と思われたくて着てきたのだ。
それゆえ願いは叶ったのだけれど、まさかそんな。公衆の面前で、しかも堂々と告げられるだなんて予想だにしていなかった。好きな人に「かわいい」と言われることがこんなにも──嬉しくも恥ずかしいことだったなんて小夜子は知らなかったのだ。
「次で降りるよ」
しまいには耳元で囁かれてしまった。もう何も言えない。返す言葉が見つからない。すっかり居心地の悪くなった車両で思うことは、「早く着かないかなぁ本当に!」だ。しかし残酷なもので。急ぎたいと思う時ほど、いつもより鈍く感じてしまうものだ、電車という乗り物は。
ほら、やはり。停止信号、しかも二回。
およそ五分遅れでようやく駅に到着したらしい。その頃には、小夜子は既に煮込まれすぎた白菜のようにくたくただった。原因である奏一郎はといえば、「着いたねぇ」と呑気に目を細めている。自分ばかりが意識していたみたいで、小夜子は少し悔しい。
電車を降りてみると、同じ車両だった若い女性の多くが一緒に降りてきたのがわかった。同い年くらいの子が目立つ。
「さよ、行くよー」
「はい!」
背中に扉の閉まる音。それに少しだけほっとする。悔しさや気恥ずかしさは、そっと車両に置いてきた。
駅名を聞いたことこそあれど、そこは初めて降り立つ駅だった。先に降りていった女性たちが列になって改札口を出ていく。それに加わるような形で二人は歩を進めていった。
「おや、もう見えてきた。駅から近いのはいいね」
間もなく奏一郎がぽつり、呟くので。彼の視線を追ってみれば、煉瓦造りの建物が二棟。辺りに高層マンションが見当たらないので比較のしようがないが──高さなんてわからなくても、その建物が何なのか、小夜子にはもうわかっている。その建物を見たことがあったから。……あくまでパンフレット越しで、だけれど。直接見るのは、今日が初めてだ。
「奏一郎さん、ここって……」
「おーぷんきゃんぱす、というやつらしいね。僕も初めて来たのだけれど」
「ど、どうして? どうして志望校、知ってるんですか? 言ってないはずなのに」
「三者面談の時に進路調査票、先生に見せてもらったからね。ああ、さよは同席していなかったけど」
「そんな前のこと覚えてるんです?」
小夜子が驚きに目を見開かせると、奏一郎は少しだけ唇を尖らせた。
「むー。もしかして僕のこと、野菜づくりしか能がないと思ってる? これでもちゃんと、『保護者』してるつもりなんだけどな」
「そ、そんな失礼な。そんな風に思ったことはついぞございませんっ!」
会話しているうちに、あっという間に大学の構内へ。十数人の女子大生が一斉にパンフレットやチラシを次々に手渡してくる。小夜子はその度に、少しだけドキドキしていた。薄化粧の人もいればうんとあか抜けている人もいて。けれど全員がきらきらしい笑顔で。自分とはせいぜい三つくらいしか変わらないだろうに、なぜだかとても「大人」に見えた。
……けれどそんな「大人」な彼女たちも、奏一郎には興味があるようで。通り過ぎれば過ぎるほど、甲高い小声を背中が拾う。
「今の人、めっちゃかっこよかったねー」
「隣にいるの彼女かな?」
「お兄さんと妹ちゃんじゃないー?」
下宿生とその保護者です、と心の中で返答する。口には出したくなかったので。
──きっと文化祭の時もこんな感じだったんだろうな。
現場こそ目撃していないけれども、彼はその端整な容姿で女子高生たちにもキャーキャー言われていたに違いないのだ。……ふつふつ。とてもじゃないが、いやかなり。面白くない、と思ってしまう。
「……奏一郎さんは私の保護者なんですからね! 保護者として来てるんですからね!?」
「ん? そうだよ?」
「不用意に女の子に声かけたりとか……ナンパとかしちゃだめですからね!」
「ふふ。しないよ」
余裕の笑み。人の気持ちも知らないで。電車に置いてきたはずの悔しさが、追いかけてきたみたいだ。




