第十八章:かわすこと ―皐月・初旬― 其の参
彼が何を言い出したのか、すぐに理解することが小夜子にはできなかった。けれど脳が働くよりもずっと早くに、心臓の鼓動が彼女を急かす。
「デ、デート?」
「うん」
「私と、奏一郎さんが?」
「うん。今から」
「今から!?」
「うん。ダメかな?」
「ダメじゃないです……っ!」
そんな聞き方はずるいと小夜子は思う。反射的に答えてしまう。願望に素直になってしまうから。
「ダメなんかじゃない、んですけど! けど私、芽衣ちゃんの忘れ物を届けなくちゃいけなくて。今すぐこれからっていうのは難しいのですが!」
いつになく早口になってしまったが、これは断りではなく言い訳だ。心の準備を整えるための。
「ああ、それなら駅で待ち合わせにしようか。急ぎの旅というわけでもなし。ゆっくり来るといいよ」
卵焼きを口に運んで、奏一郎はふんわり笑みを浮かべた。碧眼を縁取る白い睫毛が、ゆるり。アーチを描いて。
「楽しみだなぁ」
せっかく美味しくできただろう卵焼き、なれど。小夜子は既に、どんなに咀嚼しても味なんて感じられないほどに落ち着かなくなっていた。
なぜ急にデートしようだなんて言うのか。今までそんなこと、一度だってなかったではないか。急に言われたって準備もあって困るのに。
困惑だけじゃない、恨みがましい感情さえ心の中を巡るけれども。ちらり、目の前の彼を見ると。そんな負の感情も溶けて消えていくみたいだった。
台所の小窓から、ゆるり忍び込む新しい風。朝日を優しく運んできたそれに、彼の髪がゆらゆら揺れて。淡い光のはずなのに──それがなぜかとても、眩しく見えた。
* * *
楠木神社を後にしてから、小夜子は息を切らしっぱなしだ。走ってはいけない、そうわかっていても、気がつけばいつの間にか小走りになってしまうのだから仕方ない。けれど、「転んではいけない」と理性的な自分が衝動を抑えてくれているおかげで、小走りで済んでいるのだ。本音を言ってしまえば、力いっぱい走りたい。
吹き抜ける風の心地よさを、全身で感じてしまいたい。そうでないと、これが現実であることを忘れてしまいそうだ。
駅で待ち合わせ、と奏一郎は言っていたけれど、小夜子は少し不安でもあった。人通りの多い駅で、携帯電話を持たない奏一郎との待ち合わせ。通信手段がないのだから、もし行き違いが発生してしまったらどうしようかと。
……しかし、杞憂であったらしい。行き交う人の視線がただ一点に注がれている。その先を見やれば──ああ、やはり。白髪の若い男性なんて、そういるものではない。
注目し、通りすぎてからも時折振り返り、を皆が繰り返しているのだ。人々の忙しい視線を追えば、奏一郎の姿も自然と目につくというもの。
しかし風に揺れる白髪を視界に入れてもなお、小夜子は彼が奏一郎であるとはっきりと認識できずに、半信半疑な気持ちでいた。色鮮やかな和服を、それはもう上品に優美に着こなすのが常の彼。けれど今日はラインの細かなストライプシャツに白いカーディガンを羽織り。普段は和服で隠れている足を黒いボトムスに通していたから。がらりと雰囲気の変わった彼に、戸惑いを覚えてしまう。
腰かけるベンチの傍ら、新緑が風に揺れ。それについていくように白い髪がふわふわと空を泳いでいる。ふいに、ほんの少しだけ上向けた横顔に前髪はさらりと流れていった。淡い陽光を受けた彼の碧眼はその深みを増していき──とても綺麗だと、美しいと。小夜子は思わず、唾を飲み込む。
──……もし私がプロのカメラマンなら、絶対に撮ってる。
心臓が大きな鼓動を取り戻す。と同時に不安にもなる。言うに事欠いて「デート」である。果たして今日一日を平穏無事に過ごせるのか、と。まだ会話もしていない、視界に納めただけ……そのたった一瞬で、こうも簡単に魅入られてしまうのに。
ふっと碧眼が己を映す。瞬間、肩を震わせてしまった。彼の視界に自分が入る、その喜びに。
「……お待たせしました!」
「いいや、のんびりくつろいでいたところだよ」
お決まりの台詞とも言えよう、「今、来たところだよ」なんて言わないところが実に彼らしい。立ち上がった奏一郎に付いていくと、そこはやはり予想通りというか、券売機の前だった。
「ところで……これからどこに行くんですか?」
「うーん……そうだな。ひとまずは秘密かな。お楽しみにしておいて」
人懐っこい笑みを浮かべながら奏一郎が切符を買っている。危うく、「切符の買い方、知ってるんですね」なんて口を滑らしてしまうところだ。
「わかりました……でも、どうして急に?」
「どうしてって?」
「だって今までそんなこと一度だってなかったじゃないですか! 食材の買い出しに一緒に行くことはあっても、あくまでそれは買い出しですし。どうしてその、急に『デート』なんて……」
ああ、そういうこと。合点がいったようだ。
券売機の数は二つしかない。こんなにのんびり話をしていては邪魔ではないかと時々振り返るも、幸いなことに人通りはさして多くはなかった。
「もっとね、いろんな景色を見てみたくなったんだ。さよと一緒に。……それが理由なんだけど、それだけじゃ足りないかな?」
「……! いえ、嬉しい……です!」
必要もないのに前髪を整える。頬が綻んでいるのを、ばれてしまわないように。
用件を済ませたらしい、振り返った奏一郎が差し出したのは──、
「はい、さよの分の切符」
「え。ああ、私の分は大丈夫ですよ? いつも多めにチャージしてあるので」
「ちゃぁじ? ってなに?」
頭上に見えるのはクエスチョンマーク。小首を傾げる彼の仕草が少し幼くて、小夜子は思わず吹き出してしまった。まさか改札を通る前からこんなにも楽しい気持ちになるなんて思わなかった。
デートはまだ、始まったばかりだというのに。




