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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十八章:かわすこと ―皐月・初旬― 其の弐

「ありがとう! それじゃ用も済んだし、急ぐからまたね」

 と早口に。小夜子は先ほど上ったばかりの階段を駆け下りていった。胡桃色の髪は風にたなびいて、ふわふわと踊っている。


 浮き足立った後ろ姿を見送って、純は溜め息を吐いた。小夜子に気取(けど)られないように、あくまでそっと。

「あれ、萩尾さんは?」

 溜め息の原因その二が、いつの間にか背後に忍び寄っていた。三角巾だけでは防ぎようもないカビ臭さを醸し出す、冊子の束を両手に抱えて。

「行っちゃったよ。急いでるからって」

「そう……」

 落胆の色が三角巾の上からシミのように滲み出ている。本当に表情豊かになったな、としみじみ思いながらも、純はさらなる追い打ちをかけてしまう──。


「まあ、あれは間違いなくデートだね」

 ……雷に打たれたみたいに、芽衣の挙動がぴたりと止まった。

「いつもより服装とか髪型に気を遣ってる気がしたし何より、『男の子の目線から見てどう思う?』とか訊かれたし。相手はたぶん……」

奏一郎(あいつ)だろうね」

 純の声を遮って、芽衣はそっと踵を返した。既に誰もいない階段。視界に入れる価値など無いということだろう。再び薄暗い蔵の中へ足を踏み入れると、彼女は茶色い冊子に目を通し始めた。劣化がひどい。


「……姉ちゃんさ、(むな)しくならないわけ?」

「何で?」

 この際だ、と純は言葉を選ぶようにゆっくりと口を開いた。

「わかるでしょ、この状況だよ。そりゃさ、俺も急いだ方がいいって言ったけど。でもまさか、ここまでとは思わないじゃん」

 芽衣は、ページをめくるスピードを緩めなかった。かさり、かさり。一定の乾いたリズムが空間を占める。既に読み終えた冊子の山は、少しずつ、また少しずつ身長を伸ばしていく。

「こんな埃まみれのカビまみれになってさ。本当にあるかもわからない手がかりを一日中、一晩中探して。……全部、全部、小夜子先輩のためなのに」

「…………」

 かさり、かさり。

「でも小夜子先輩は、そんなこと知らずに……呑気に、しかもよりにもよって奏一郎(あいつ)とデートだ。そんなの、姉ちゃんが報われない……」

「それでいい」

 かさり、かさり。

「それでいいんだよ、私は」

 報われるためにやっているわけじゃないんだと。小さく小さく、呟いて。

「誰に頼まれたわけでもない、私が勝手に始めたことだもの。見返りを求める方がどうかしてる。萩尾さんのため……って思っていても、もしかしたら私がしていることは、結果的に萩尾さんを傷付けてしまうかもしれないし」


 けれど、と付け加えて。芽衣は言の葉を綴るのを止めはしなかった。

「萩尾さんのためにできることがあるなら、少しでもその可能性があるなら……やるよ、私は」


 強がりなどではなかった。恐らく虚勢でもない。琥珀色の眼光は、切っ先のように鋭く空を切り裂いていた。こんな真剣な眼差しでここまで言われてはもう、純も口をつぐむしかない。黙って彼女を手伝うほかはないだろうと悟る。……そう、見返りを求めずに。


「……それに、まったくの手がかり無しってわけでもなさそう」

「え?」

 彼女が示したのは冊子の最後のページだった。

「この冊子はこの町一帯の地図を載せてる。もちろん年代はバラバラみたいだけど……」

 薄墨で綴られる「池」や「川」。そして彼女の指し示すのは、ぽかりと空いた孤独な空間──「楠木神社」。

「これは少なくとも昭和中期より前の地図みたいね。今は存在しない池がまだあった時代だし。もう埋め立てられてしまったけれど、小さい頃はこの近くの池で遊んだんだって父さんから聞いたことがある」

 指で地図を辿る。川を越え、池を通り過ぎ。町並みを闊歩して、やがて辿り着く──。


 広い森。その傍らを走る小川の途中で、ぽつんと。あの店の存在を知らなければ誰も気にかけないだろう。小さな、小さな長方形。

「……昭和中期には既に、心屋は存在してる」

「そういうことになるね」

「遡ってみれば、いつ頃からあの店があるのか調べられる。……萩尾さんのおかげで、少し前進した」


 すべての冊子に目を通しつつ、地図を辿る。互いに言葉を交わすことはなかった。そんな時間も惜しいくらいだった。かさり、かさり。ページをめくる度、鼓動が早まっていく。昭和初期。大正。明治後期、明治初期……まだ、「心屋」は存在している。つまりそれが意味するのは──、


 ──いつから……いつからあの男は、心屋(ここ)にいる……!?


「……姉ちゃん!」

 ぴたり、純の呼びかけに芽衣は動きを止めた。彼の細い指が指し示す広大な土地、やはりそこには「森」の一文字──などではなく。


「……(ひじり)?」


 心屋を意味する長方形も、そこには記されていない。ただその一文字が鎮座しているだけだ。


 人が一人迷い混んでしまうほどの広大な森。そこはどうやら以前……遥か昔には、「聖」という名の土地であったらしい。


* * *


 まさしく、青天の霹靂。

 それは朝食の席でのことだった。


 卵焼きを作るのはもっぱら小夜子の役目。最初の頃は失敗作が多かったものの、近頃は焦げ焦げではない黄金色のそれが作れるように。

「今日も美味しく作れました」

 なんて自慢気に話しかけると、奏一郎はゆっくりと微笑んで……そして、


「さよ、デートしようか」


 脈略など存じません、とばかりに。そう言ってのけたのだった。

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