第二章:であうひと ―葉月― 其の壱
「……『心屋』。……変な名前だなぁ……」
地図を見ながら吐き出すように言ったセリフは、半分、本音。残りの半分は、八つ当たり。
高校生、二度目の夏休み。小夜子はキャリーバッグを二つ引きずって、地図を見ながら移動していた。蝉も鳴くのを躊躇うほどの強い日差しが、彼女の体力を奪っていく。
──……暑い……。
たとえほんの数十秒だとしても、まるで刃のような日光から体を守ってくれる分厚い雲に心から感謝したい。『刺すような日差し』という言葉を小夜子は今、身を以って思い知らされているのだ。
首筋にぺたりと貼り付く、腰まで真っ直ぐに伸びた長い髪。先ほどからの不快感に一層、拍車をかける。それを振り切るようにして、胡桃色の髪を丁寧に二つに結わった。買ったばかりの白いワンピースの皺になってしまった箇所を伸ばし、
「……っよし。さてと」
気分一新、というやつだ。辺りを見回してみる。
辺りに建物は少なく、小さな林や小川が眼前には広がっている。田舎町、といっても差し支えないかもしれないが、今、自分が歩いている道は紛れもなくアスファルトで舗装されていて、林越しに見える遥か彼方には、巨大なビルがいくつも連なっている。
東京に近い、隣県。
目線を背の高さに戻し。小夜子は額に溜まり始めた汗を、ハンカチでごしごしと拭う。
目の前には三つの分かれ道。しばらく地図と睨めっこしてから、きゅっと皺を寄せる八の字眉毛。
──……この道で、本当に合ってるのかな。さっきから、同じ所をぐるぐる回ってるだけな気がする……。
まさか迷ったか? またか? と自問自答するほかに今のところ、手段は無く。途方に暮れた彼女は紫外線を遮ろうと、腕を額に押し当てた。
道に迷うのは日常茶飯事ではあるが、地図を片手に迷うことなど初めてで──困り果てた末、結局は再び、三つの分かれ道に視線を戻すこととなる。
すると真ん中の道の彼方から、一つの黒い影がこちらに近寄ってきているのに気付く。
一番避けたい手段ではあったが、道を訊こうと小夜子は躊躇いがちではあれど口を開いた……のだが。その口は、そのまま“あんぐりと”した。影は迷う素振りも見せず、こちらにまっすぐと近づいてくる。
小夜子はその影の正体を認めた瞬間、夢を見ているような、そんな感覚がした。それがあまりにも幻想的な存在だったから──。
小豆色の番傘で日光から守られていたのは、驚くべきほどに白い肌と髪。身に纏った薄紫の着物には、華美な蝶々の柄が浮かぶ。そして小夜子に向けられる、空に似た深く、碧い目。その目と目が合った瞬間、その男性は穏やかに微笑んで──ゆっくりと、言葉をこぼし始める。
「……迎えに来たぞ」
「……え」
微動だにすることもできず、小夜子はぽかんとしてしまう。が、そんな彼女に構わず男性は形の良い唇を開いた。
「『萩尾 小夜子』だろう?」
どこからか、風鈴の音が響く。
まるで吸い寄せられるかのように、小夜子は彼の後ろを付いていった。小豆色の番傘は、日焼け傘仕様になっているのだろうか……。そんなことを、ぼんやりと考えながら。
ふと、何の前触れもなしに足を止める男性に、小夜子も続く。
「さぁ、着いたぞ」
そう言って彼は番傘を畳んだ。
それが傘立てにそっと仕舞われるのを見届けた小夜子は、次に彼の入っていった建物を見やる。そこは今にも崩れてしまいそうなおんぼろの小さな店だった。大昔に墨汁で書いたらしい、薄らと『心屋』と記された木製の看板が掲げられている。
二階建ての薄汚れた木造のその店は、シャッターが開ききっていて中が丸見えだ。店内を一望し、思わず小夜子は首を傾げた。
──……アンティーク。時計屋? いや、人形屋……かな?
『商品』なのだろうが、それらに統一性というものを小夜子には一切感じられなかった。
まず目に付いたのは──。
とぐろを巻いた蛇が、笠になっているランプ。紐を引っ張ると、蛇の目玉と体が銀色に光り始めた。思わずうわ、と言葉が零れる。目映い色合いは綺麗と言えば、綺麗かもしれない。が、これを部屋に置く人間の神経は知れたものじゃない。悪趣味だとすら思える。小夜子はすぐに、明かりを消した。
次に、針が四つもある金の時計。本当に売り物なのか疑わしいほど、ところどころ錆びついている。
──……この四つ目の針は、何を示しているんだろう。
続いて、小さな日本人形。艶がかった黒髪と、円らな瞳。赤い着物に身を包んだ少女の人形は、他の商品と比べれば、いくばくかましなものに見える。爪にも細かな装飾が施されていて、それはそれは美しく思えた。が、あまりにも精巧に作られたその人形は、この薄暗い店内では返って不気味にも感じられた。目線を合わせることすら出来ぬ程に。
他にもヒビ割れたグラス、壁には真っ黒なキャンバス。布地が破けて中身の小豆が丸見えのお手玉、蜘蛛の巣のような軌跡を描いた手鏡。
──ま、まともな商品が、何一つ無い……!?
心臓が早鐘を打つ。同時に押し寄せる不安の波。
これから先、ここで生活していくなんて本当にできるのだろうか、と。
先に中に入っていた彼が、茶の間の扉からひょこっと顔を出す。
「どうした? 早く上がるといい」
「は、は、はい……!」
思わずどもってしまい、小夜子は口元を押さえる。恐る恐る目線を上向けると、彼は何も気にしていないのだろうか、ふっと笑みを溢してから居間に姿を消した。
この店の商品を見るのは後だ。そう思った小夜子は、不可思議な商品たち、そして古びれたレジを通り過ぎ。靴を脱ぎ、それを揃えてから茶の間へと上がった。傍らには彼の草履もある。ここが実質、玄関ということになるのだろう。
店内とは打って変わって、古びれた畳に褐色のちゃぶ台が一つと、玄関さえ通り過ぎてしまえば内装は至ってシンプルなものだった。
敷かれてあった座布団に正座し、自分がしばらく下宿することになるこの家を、きょろきょろと見回す。開かれた障子から緩やかに入ってくるのは清涼たる風。それは徐々にではあるが、体中に篭もりきっていた熱を冷まそうとしてくれている。耳に優しいさわさわと掠れる葉の音から察するに、どうやら店の裏には森が広がっているようだ。
「あいにく麦茶しかないんだが、飲むか?」
「あ、は、はい。ありがとうございます」
台所から持ってきたらしい二つのコップ。なみなみ注がれた麦茶を小夜子の目の前に置いたかと思うと、彼は向かいに座り込んだ。麦茶を口に運ぶだけで、それ以上何も言わない。
何故目の前に座るのかと小夜子は目を丸くしたが、些末なこと。それ以上に目を向けるべきなのは、彼の風貌の方だろう。
首筋までかかった、見事なまでのムラのない白髪。一方で、肌理細やかな肌の白さと張りからは、瑞々しい若さが滲み出ている。せいぜい歳は二十五、六といったところか。長い前髪の隙間から覗く碧い目は、空をそのまま切り取って貼り付けたような、カラリと乾燥した──それでいて爽やかな寒色。カラーコンタクトでも入れているのだろうか?
ひとしきり観察し終わって初めて、小夜子は二人の間に流れる沈黙に気づいた。
──気まずい。なにか。何でもいいから話さなければ。
「あ、あの、すみません」
口を開くと、彼は「ん?」と言ってコップから口を離した。
「どうした?」
「あの……そ、『奏一郎さん』は、どこにいらっしゃるんでしょうか?」
『奏一郎さん』というのは父から教えられた、下宿先の──これからお世話になる──人の名だ。小夜子はまだ会ったことはない。父の話では、『白髪の目立つおじいさんである』ということを聴かされているだけだった。
「僕だが」
「……はい?」
彼のあっさりとした返答に、小夜子はゆっくりと首を傾げ。
──『僕だが』って、何が? 私は今、『奏一郎さん』はどこにって訊いたのだけれど。
小夜子の表情を見て急に思い出したのか、彼はそのまま続けた。
「ああ、そういえばまだ自己紹介をしていなかったな。僕が『心屋の奏一郎』だ。よろしくな」
玲瓏たる風鈴の音が、森を駆け巡る。
彼もとい、奏一郎は穏やかに微笑んだ。
小夜子は、固まった。