第十八章:かわすこと ―皐月・初旬― 其の壱
階段を上り終えた頃には、相変わらず息が絶え絶えだった。小ぢんまりとした鳥居に会釈をすれば、頭がくらくらしてしまう。何度上ってもなかなか慣れない……けれど、普段は運動なんてできない身なのだからこれもトレーニングだ、と己に言い聞かせながら。小夜子は深呼吸を繰り返す。
呼吸も落ち着いたところで、小夜子は社務所へと出向いた。
「芽衣なら蔵の方にいると思いますよ。最近はいつも其処にかじりついていてね……」
応対してくれたのは所作も美しく品のある──見知らぬ女性だった。が、顔を見れば、声を聞けばすぐにわかってしまう。きっと芽衣と純の母親だ。
「お茶でも飲んでいかれる?」
「い、いえ! 実はこの後、外せない用事がありまして……!」
艶っぽい雰囲気に呑まれ、思わず頷きそうになってしまったがどうにか回避。「外せない用事」といった己の言葉に、小夜子は頬がほんのり熱くなったのを感じた。
* * *
「……やっぱりさ。時系列がごっちゃごちゃになってわけわからなくなるし。虱潰しに翻訳するよりも年代順に並べていってからの方が効率が良くない?」
無表情でそう問う純に、これまた無表情で返す芽衣。
「その年代がわかれば苦労はしないんだけどね。元号が書かれてあるものもあれば、書かれていないものもあるし。仮に書かれてあったにしても、カビてたり虫食いの被害に遭ったりで読めないときもあるから……。あまりそこに時間を割きたくないの」
「……あ、そ。じゃあ俺は、あの場所が昔は何だったのか、手がかりになりそうなものを探してみるよ。あるといいけど」
「うん、お願い」
……爽やかな朝のこと。
蔵を覗いてみると、美少女と美少年の二人が古めかしい冊子を読み漁っていた。足元のランタンの灯りが、細かな埃の舞っているのを知らせる。
二人ともせっかくの形の良い鼻と唇を三角巾で覆ってしまっていた。仕方のないこととはいえ勿体ないなぁと思ってしまう。……と、そこまで考えてはたと思い出す。ついつい、本来の用件を忘れてしまっていた。
姿勢を正しはしたものの──声をかけたいのに、二人の真剣な眼差しがなかなかそれをさせてくれない。蔵の入り口にこうして佇んでいても気が付かないのだから、恐ろしいまでの集中力だ。次々に冊子を読み漁っている芽衣。時間が惜しいのか、脚立の上に腰かけながら、だ。
一体なにを探しているのだろうと、無造作に足元に転がっていた一冊を手に取る。開いてみると、それは読み物というよりカラカラに乾燥しきった紙の束に等しかった。うっすらと文字が浮かんではいるが、薄墨をさらに薄めたような淡い色が、つらつらと縦に並んでいるだけのようにも見える。辺りを見渡してみれば、同じように古めかしい冊子がきっちりと隙間なく本棚に押し込まれ……蔵をぐるりと一周していた。もしかしたら数百、あるいは千に届くのではないか、と。
冊子を閉じた音に純が振り返る。
「……あれ、小夜子先輩? いつからそこにいたの?」
「あ、うん、つい今しがた……」
落ち着いた純の態度とは対照的に、小夜子の姿を認めた、瞬間。
「萩尾さん!」
驚きに目を見開いて、脚立から颯爽と飛び降りた芽衣。わあ、かっこいい。なんて思う間もなく、肩を掴まれたかと思いきや蔵の外に押し出されてしまった。あっという間だった。瞬間移動でもしたみたいに。けれど上下する芽衣の肩が、そうではないのだと思い出させる。
「萩尾さん、大丈夫!?」
「な……にが?」
「だって! 掃除はしたけど、まだ埃だって……!」
「あ、ああ、大丈夫だよ? あの、ほとんど入り口までしか入ってなかったから」
正直にそう答えると一気に弛緩していく彼女の腕。この細腕にどれだけの力を込めたのだろう、と。掴まれた両の肩が、少しだけ痛かった。
「それにしても、どうしてここに?」
「これ、届けに来たの。図書室に置きっぱなしだったって、司書さんから預かって。昨日の夜、一応メールしたんだけど……」
「ああ、そっか。ごめん、全然気が付かなかったよ」
空白の目立つ進路調査表を手に、芽衣は力なく笑った。
「進路、これから決めるの?」
「まあね。特にやりたいことなんか無いし。就職に有利そうな学部なら別に、どこでもいいかなって……」
「芽衣ちゃん、頭いいもんねぇ」
「成績だけだよ」
肩を竦めながら、彼女は三角巾の下で綺麗に笑った。
ひょこり、蔵から顔を覗かせる純。何事かと心配そうに丸まった瞳と、目が合った。
「二人は探し物?」
「ああ、まあね。ちょっとした探し物……みたいなものかな」
そう濁した芽衣。詳しく話したくないということなのだろう。
「そっかぁ、大変そうだね。あんなたくさんの中から探すなんて……」
「まあね。劣化してて読めないことの方が多いし、仮に状態が良くても御先祖の日誌みたいなのがほとんどで、気が滅入るよ」
「……私も手伝おうか? ほら、けっこう探し物は得意だよ!」
意気揚々と提案するもいやいや、と首を振られてしまった。流れるように、手に抱えたままの冊子を取り上げられて。
「私が探して、自分の手で見つけ出したいんだ。それに家族ならまだしも誰かの、萩尾さんの手を借りるのは……少し違うと思うから」
「そう……あの、でも本当に困ったときは言ってね? 手伝うから!」
隠れていない琥珀の目がふわり、細められた。
「ありがとう、嬉しいよ。本当に時間がかかりそうでさ。年内に片付けられたらってくらい……」
言いながら、かさり。乾いた音を立てさせて、冊子をめくる芽衣。──の目が、途端に丸くなった。視線を追うと、それは冊子の最後のページ。小夜子も目を通していないページだ。文字とは異なる線がいくつも連なっている。幼い子供の落書きのようにも見える、一体これはなんだろう? と小夜子が考えている間にも、
「これは山の形……? でもここに池なんて……そうか、埋め立て……?」
ぶつぶつと思案顔で呟く芽衣。どうやら彼女にはこのページの示すものが何なのか、理解できたらしい──。
「……純! この表紙と同じ色のやつってたしかまだあったよね!?」
「二階の方に!」
「私が行く、待ってて!」
風のように走り去る背中を、小夜子はただぽかんと見つめることしかできないでいた。芽衣と入れ違いにやってきた純に、何があったのかと目で訴えてしまう。
「姉ちゃんさ、ここ数ヶ月は毎日、毎晩のようにあそこにいるんだよ。休みの日なんかほぼ一晩中」
「へ、へぇ……よっぽど大切な探し物なんだね……」
「そうなんだろうね、姉ちゃんにとっては」
この言い分だと、純は芽衣と違って「探している」わけではない……姉を手伝っているという感覚でしかないのだろう。
「お手伝い、大変だね」
目の下に隈ができてるよと言うと、力なく彼は笑った。隈の形がゆるりと曲がる。
「うん。けど、あんなに一生懸命な姉ちゃんは初めて見るからさ」
バタバタと慌ただしい音を立てる蔵を見つめ、純がぽつりと呟いた。
「大切なもののためなら、人ってがんばれちゃうものなんだね」
大切なもの。それが果たして何を指すのかと、小夜子は首を傾げるしかない。表情に出ていたのか、純は苦笑を浮かべるばかり。
「こればかりは、さすがに本人の口からじゃないとね」
「そう、だね。言ってくれるのを待つことにするよ」
ところで、と話題のレールを切り替えた純。
「肩に埃付いてるよ。取ろうか?」
「え! 嘘!?」
はらり、取り去られた埃に安堵の息を漏らすも、小夜子は相変わらず不安げに褐色の瞳を揺らしてしまう。
「ほ、他には!? どこにも付いてない?」
その場で一周、体を回してみせる小夜子。その勢いの良さに思わず、純もたじろいでしまうほどの。
「だ……大丈夫だよ?」
「ありがとう! ……ちなみに男の子の目線から見て、どうかな? 変なところとかない? 子供っぽくない?」
問いの連続にも、ああ、と純は納得した。問いの意味も、その先の意味するところも。
編み込まれた胡桃色のハーフアップは綺麗にまとめられ、薄手のグリーンのカーディガンはまだ終わらない春を思わせる。膝まで伸びた純白のワンピースは、ふわりと微風にはためく。
こう言えば正解だろう、ということを彼はきちんと心得ていた。
「大丈夫だよ。ちゃんと大人っぽいよ」
「本当!? ……えへへ、よかったぁ」
先ほどまでとは打って変わって、今度は破顔してみせる小夜子。表情筋が今日は忙しない。




