第十七章:みえたもの ―卯月・中旬― 其の十参
けれど相変わらず、フチタローだけは小夜子の足元に擦り寄ってくる。愛しさこそこみ上げども、こういうときくらい愛想を振りまいてもらいたい。
純は動物が苦手と聞いていたが、どうやら嫌いというわけではないようだ。猫じゃらしに見立てたおもちゃを巧みに操り、二匹の子猫を翻弄する腕は見事なもの。 出会った頃からの表情の堅さは相変わらずだが戯れの中、時折ふわりと微笑むのもまた、こちらを和ませるものがある。美少年と子猫。非常に絵になる組み合わせだと小夜子は思う。
「この二匹にしようかな」
ぽつり、絵画の美少年がそう呟く。どうやら目の前ではしゃいでいる二匹のことを気に入ってくれたらしい。
「姉ちゃんもいいよね?」
「ああ、うん」
「可愛いし、元気もいいし。一緒にいて楽しそうだし。だからこの子たちがいい」
なるほど基準がそれならば、フチタローが選ばれるはずもない。愛想が良くなければ見てくれもひ弱なのだから。
「名前も決めないとね。あと……引き取る日はいつにしようか」
「今お父さんとお母さんにも訊いてみようか?」
淡々と会議は進む。きっとこの会話の意味を、フチタローは理解してはいないだろうが。なんとなく聞かせたくなくて、小夜子はゆっくりと後ずさり。
ふと台所に視線を送るも、店先を覗いても奏一郎の姿はない。どこか外にでも出かけてしまったのだろうか、と。靴を履き、何とはなしに外に出てみる。
夕方の空気を醸し始めた小川がきらきらと目に眩しい。花冷えというやつだろうか。からりと乾燥した冷たい風は、火照った体を優しく包んでいった。
「もう歩いていいのか」
風が声を運び、左耳が拾う。彼もまた涼みに来たのだろうか。橘が一人、手持ちぶさたにそこに佇んでいた。
「はい、大丈夫です。本当に、本当にご心配をおかけしました」
「いや、無事ならいいんだ」
心底ほっとしたように口角を上げて。彼はそう答えた。けれどどこか、心が安らがない。その理由も小夜子はしっかり認識していた。
「あの……橘さん」
「ん?」
「お、重かったですよね?」
静音から聞かされた時からずっと、心臓は早鐘を打ち続けていた。さぞかし重かったろうと思うと。申し訳なさと恥ずかしさとで、また体温が上がってしまいそうだ。
問われた橘は真顔だった。なぜ、早く答えてくれない。思わずその真剣な眼差しに、つられる。
しばらく、睨めっこは続いた。やがてついに、橘がそこで噴き出す。
「ふ、ははっ。大丈夫だ。軽かったから」
「なんでもっと早く言ってくれないんですか……!?」
「悪い、悪い」
珍しい、意地の悪い笑みだ。時々だ。いつもは優しいはずの彼が、時々。こうして意地悪な笑みを浮かべることがあるなぁと。桐谷や静音へ向けられるのとは、少し違うような、と。小夜子は時折、思う。
ふと。足首に生暖かい感覚。しゅるり、尻尾を巻き付ける茶色の成猫。フチタローを心配してか、小夜子の後を追ってきたようだ。
「あんず、だったか。こんなに小さいのに、ちゃんと“母親”してるな」
名前を覚えてくれていたらしい、橘がその名を口に乗せた。
「はい。でも、芽衣ちゃんたちに二匹引き取られたらあとは……この子だけ、ですから。もしかしたらあんずも寂しいのかもしれません」
言いながら、気付いてしまう。あんずも、と言ったその言葉の意味するところに。橘にもきっと、もう気付かれてしまっただろうけれど。
「で、でも、純くんなんて特に気に入ってくれたみたいですし! 本当によかったです。名前ももう考えようとしてくれているみたいで……」
途端、ひやり。名前と言った、瞬間。
首筋を、背中を何かが走る。それはきっと悪寒というもので。嫌な予感、と言い換えることもできるもので。地に足が付かない、そんな嫌な感覚を抱かせるもので──まだ夢の中に閉じ込められている、ような気さえ起こして。
「……橘、さん」
不安、焦燥。それらがちりちりと燻っている。目覚めてからずっとだ。いつまで……いつまでそれが火種のままでいてくれるだろうか?
「私の名前を呼んでもらってもいいですか?」
早く“それ”をしてもらわないと、安心できない。
自分が自分でなくなるような。煙のように、灰のように消えてしまいそうな気がして。
「ごめんなさい、変なこと頼んでるって、わかってます。でも、私、なんだかとても不安で」
「……今までの、俺だったら」
静かに、橘は遮った。
「きっと安請け合いしていただろう、と思う」
けどな、と付け加えて。
「そういうのは、全部あいつにしてもらえ」




