第十七章:みえたもの ―卯月・中旬― 其の十壱
すくっと立ち上がったかと思えば。横たわる彼女を尻目に枝を掻き分け始めた奏一郎。
「……おい、まさか俺が運ぶのか?」
そう、たまらず声をかける。けれども問いかけられた本人はどこ吹く風。
「なるべく平坦な近道を先導する役が必要でしょう? ここから店までの道程を、君が知っているなら話は別だけれど」
「それは……」
理路整然、と言えばそれまでなのだが。橘としてはやはり真っ先に考えてしまうのは、小夜子の気持ちだった。……が、
「……迷ってる暇なんて無い、よな」
その体の放つ熱に驚きを覚えながら。細い膝の下と背中に腕を通すと、橘はゆっくりと立ち上がった。腕の感覚が彼女を覚えていたのだろう。そういえば以前の発作の時も、こんな風に抱えたのだと思い出す。華奢な体躯も、強く握れば折れてしまいそうな腕も相変わらずだ。……あの頃よりもずっと、彼女を儚い存在に感じてしまっていることを除いて。
──「少なくとも“長生き”はできないんだろうな、あの子」──かつての恩師の台詞が浮かぶ。浮かぶ度に胸が締め付けられる。今、腕の中にある命が、いつ消えてしまうとも知れない事実に。それこそ一度強い風が吹けば、ふっと姿を消してしまいかねないほどに儚いのだということに。
人の命が例えば、蝋燭の灯であるならば。彼女の蝋は細く、頼りなく、そして……短い。
* * *
森を抜け、心屋へ。二階の寝室に運び、ベッドに降ろす。その間も小夜子は一度も目を覚ますことなく、安定とは程遠い呼吸を繰り返していた。症状は良くも悪くもなっていないようだ。
「氷枕を作ってくるから、彼女の様子を見ていてくれ」
有無を言わさぬままに、奏一郎は階段を下っていく。足音が遠ざかったところで橘はやっと、ふうと息を吐けたのだった。もちろんまだ、気は抜けないが。傍らのシンプルなデザインのチェアに腰かけ、ふとベッドの上の彼女を見下ろす。
紅い頬。止まらない発汗。そして激しい呼吸の合間には、聞き取れないが何かを呟いている。
奏一郎は発作ではないと言った。けれども、ほんの一時間前まであれだけ元気だった彼女が、今ではこの有り様だ。急な発熱にしてはあまりにも症状の進行が早いような気がしてならない。
「う……」
好きな相手が苦しんでいるというのに、何もできない自分が歯痒い。せめて、何かしてやれることはないかと。ハンカチで汗を拭う。彼女の震える唇に、そっと耳を近付ける。
「い……」
「うん、どうした?」
──何か欲しいものでもあるなら。すぐにでも用意してやる。
導かれるように、耳が声を拾う。
「そ……」
ゆっくりと紡がれる一文字、一文字が。
「……い」
少しずつ意味を、成していく。
「そう、いちろ……」
断片的、ではあれど。橘にはわかった。彼女が何を欲しているのか、わかってしまった。
「そ……いち、ろ……」
それはきっと、自分が用意する必要など無いもので……彼女が少し手を伸ばせば、常に届くところに在るものだということも。
「……様子はどう?」
落ち着いた声が、背後から。氷枕を片手に、奏一郎はそこにいた。
ほら、ここにいるじゃないかと。橘は心の中で、ひんやりとそう呟いた。
「まだ意識は戻らない?」
「ああ、まだ。……けど……」
そう、無意識だ。無意識の最中にも彼女は、呼んだ。求めた。それは自分などではなくて。決してなくて。
「……お前の名を、呼んだ」
譫言の中でも求めていたのは、奏一郎なのだと。橘は告げた。
「そう」
まるでそれがごく当たり前の、自然なことであるかのように。一切の驚きも喜びも見せず、淡々と。奏一郎は小夜子の後頭部を持ち上げて、氷枕を忍ばせた。
「たちのきくん、皆に連絡を入れてくれるかな。見つかったってことと、熱を出して倒れてたってことも。お花見を続行してくれていても、中止してくれても構わない。その辺の判断は皆に任せるって」
「中止に決まってるだろ。たぶんあいつら、すっ飛んでくるぞ」
「そうか、そういうものか」
「……じゃあ、連絡してくる」
橘は立ち上がって席を譲った。そっと部屋を出て、階段を下る。ちらりと振り返ると、先ほどまで自分が座っていた席に奏一郎が腰かけていた。
そんなごく普通の光景をなぜか、見続けることはできなかった。
「そう……い、ちろ……」
小さなはずの彼女の声を、なぜか耳は拾う。
「さよ、大丈夫だよ」
優しく呼び掛ける奏一郎の声も。
「ここにいるよ」
なぜか耳にへばりついて……離れなかった。
一階まで降りたところで、携帯電話を開く。発信してもののワンコール。すぐさま電話に出てくれた親友に、橘は少し救われた心地がした。
小夜子が見つかったこと。熱を出して森で倒れていたこと。既に心屋へ運んだことを伝えると、案の定。すぐさま弁当箱や蓙を回収して、心屋へ向かうと。即決だった。思わず口元から笑みが溢れる。
「だよなぁ。おまえはそう言うだろうと思った。今から迎えに行くから待っててくれ」
もう道は覚えたから、と付け加えて。電話を切ろうとした……その時だった。
〈ねぇ、きょーや。何かあった?〉
迷いの無い、素朴な質問が飛び込んできたのは。
「……何で、そう思った?」
〈なーんか無理してるっぽいっていうか。空元気っぽい声してるからさぁ。なんか、わかっちゃうよね〉
ふと、橘は俯かせていた顔を上げた。
「……だよなぁ。おまえはそう言うだろうと、思った」
やはりこの親友には、隠し事などできそうもない。
ぐるぐると渦巻いていた感情が、流れ出す。いや、知っていた。この感情の名を、知っていた。わからなかっただけ。わかりたくなかっただけだ。
「知っていたはず、わかっていたはず。覚悟していたはずなんだけどな」
思わず笑みが、溢れる。
「片想いってけっこう、辛いな」
* * *
見慣れた天井。ぼやぼやとした視界が徐々に晴れていくと、まず目の前に飛び込んできたのがそれだった。
「あ、起きた?」
そして耳が捉えたのは、落ち着いた声色の静音。いつもの明るい笑顔には優しさがプラスされている。
「すごい熱出してぶっ倒れたって聞いたんだけど、覚えてる?」
「……覚えて、ない」
「そかそか。うんうん魘されてたけど、嫌な夢でも見てたん?」
額に押し当てられた静音の掌。ひんやりとした感覚に思わず目を閉じる。
「……びっくり。熱がもう引いてんだけど。体はどう? しんどくない?」
「夢、だったのかな。よくわかんないよ……」
「あー、体調崩してると変な夢見るよね。あるあるー」
小夜子は体をゆっくりと起こしてみた。体から熱の抜けた感覚。汗を大量にかいたのだろうか、肌がペトペトしていて気持ちが悪い。静音が心配そうに顔を歪めているが、今はそれよりも気になることがあった。
「ずっと、ここにいてくれてたの?」
「ううん。私が来たのなんてたった今だよ。っていうか、小夜子が運ばれたのだって十分前くらいだし」
「そう、なんだ」
果てしなく永い……永い時を、過ごしてきたような気さえするのに。妙な感覚だなぁと小夜子は思う。
「それまでは奏一郎さんが付き添ってくれてたんだけど。ま、女の子の部屋だからね~。さすがジェントルマンは違うわ~」
「そう、なんだ。うん、なんか……そんな気がした」
起きた時から、なぜか。ずっと見守ってくれていたような、そんな気がしていた。気のせいではなかったのだ。そしてそんな自分がどこか誇らしく思えて、じわじわと嬉しさがこみ上げてくる。けれど、それが萎んでいくのも早かった。静音がここにいる、しかもつい今しがた。ということは、だ。
「お花見……楽しめなかったよね? 本当にごめんね」
「いいって、いいって! 桜なんてまた来年だって見られるんだしさぁ」
気を遣ってくれているのが、わかる。思わず、シーツをきゅっと握りしめてしまう。毛布の下だから、きっと静音には見えていないのだろうが。彼女は濡れたタオルを小夜子に手渡しながら、困ったように微笑んだ。
「それに、純くんもいまいち体調良くないみたいだしさ。どちらにせよお開きも早かったんじゃないかなー」




