表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ツクモ白蓮  作者: きな子
194/244

第十七章:みえたもの ―卯月・中旬― 其の十

 その声は何度も、何度も同じ言葉を紡ぐ。が、全身に走る痛みに耐える中、最後まで聞き取れるほどの力は小夜子には残されていなかった。

 徐々に小さく、やがて消え失せていく声。耳元にある気配は今にも失われようとしている。待って、と。小夜子は声なき声で叫ぶ。


 あなたは一体誰なのか。

 何を伝えようとしているのか。

 なぜいつも、夢に現れるのか。


 ……思い付く限りの疑問をぶつけた。答えられないのか、それとも答えたくないのか。相手からの応答は無い。


 そこでまた一つ、二つ。ぷかり、ぷかり。疑問符が浮かぶ。


 なぜいつも夢に出てくるはずのそれが、ここにいるのか? まさか自分は今、夢の中にいるのか?


 違う、と断言できる。痛み。この全身に及ぶ激痛が幻であるはずがない。けれど、ならばなぜ今。あの声が耳元で聞こえたというのか。

 疑問がぐるぐると東奔西走しているうちに、声の気配は完全に消えてしまった。やがて脇腹に追加されたのは、じりじりと炙られるような痛みだった。熱い。痛い。痒い。いつ終わるのかと浅い呼吸を繰り返していくうちに、それはまたも全身に広がっていく。


 ──嫌、だ。もう嫌だ。楽になりたい。早く、早く、早く……!


 固く、瞼を閉じた。どこか、遠くへ意識を飛ばしてしまいたい。これが悪い夢ならば覚めてほしい。現実の痛みならば、せめて幸せな夢を見せてほしい。


 己の今の居場所が(ゆめ)にあるのか(うつつ)にあるのか、曖昧なままに。

 彼女(・・)はそっと、意識を手放した。


 * * *


 鬱蒼とした森の中、ぽっかりと空いた空間で独り。静かに、密かに虫の息を繰り返す彼女を先に見つけたのは橘だった。が、すぐに彼女の元へ駆け寄ることはできなかった。

 瞬時に思い出されたのは昨年の文化祭の時のことだ──もしや発作か、と。その文字が頭を駆け巡った瞬間にほんの僅か、一瞬なれど。恐怖心が足を地面に縫い付けた。そのほんの一瞬の逡巡が──先に発見したはずが──奏一郎よりも出遅れた一因となった。


 風の抜けるように追い越されたかと思えば、すぐさま彼の背中を見つめる形となる。けれど不思議と奏一郎の所作は、こんなときでも緩慢そのものであった。

 着物が汚れることなどお構いなしか。横たわる彼女の傍らに膝を折ると、彼はゆっくりと口を開く。


「……目を、覚まして」


 焦燥の色は無かった。ただ、ぽつりと滲むのは。


「目を覚まして」


 淡い淡い、懇願の色。


「目を開けて。起きて……起きてよ」


 幼い子供が、深く眠る母親を遠慮がちに起こそうとしているかのような。妙な錯覚を橘は覚えた。奏一郎の表情は見えない。けれど曲がった背中は、微風(そよかぜ)にも容易く拐われる頼りない白髪(はくはつ)は、少なくとも怯えているかのようだった。静かに、何かに。

 肩を揺らすでもなく、名を呼び掛けるでもない、ただひたすらに「起きて、起きて」と繰り返す──。


 ……橘は暫し、その異様とも言える光景に目を奪われてしまっていた。それでも一本、また一本。足を縛る糸を断ち切って。そして一歩、また一歩。二人に──二人の世界に、近付く。

 見れば小夜子の胸は上下に、不規則なリズムを刻んでいた。荒い呼吸。額に浮かぶ玉の汗。顔色に青みは無く、むしろ紅潮している。以前に見た発作とは症状がまるで異なる。


「発作……なのか?」

「いや、違うよ」

 不自然なほどの素早い切り返しに、面食らう橘。

「彼女を心屋まで運ぼう。手伝ってくれ」

 奏一郎の横顔は無表情だった。悲しみも焦りもそこには無い。そこには何も、無かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ