第十七章:みえたもの ―卯月・中旬― 其の十
その声は何度も、何度も同じ言葉を紡ぐ。が、全身に走る痛みに耐える中、最後まで聞き取れるほどの力は小夜子には残されていなかった。
徐々に小さく、やがて消え失せていく声。耳元にある気配は今にも失われようとしている。待って、と。小夜子は声なき声で叫ぶ。
あなたは一体誰なのか。
何を伝えようとしているのか。
なぜいつも、夢に現れるのか。
……思い付く限りの疑問をぶつけた。答えられないのか、それとも答えたくないのか。相手からの応答は無い。
そこでまた一つ、二つ。ぷかり、ぷかり。疑問符が浮かぶ。
なぜいつも夢に出てくるはずのそれが、ここにいるのか? まさか自分は今、夢の中にいるのか?
違う、と断言できる。痛み。この全身に及ぶ激痛が幻であるはずがない。けれど、ならばなぜ今。あの声が耳元で聞こえたというのか。
疑問がぐるぐると東奔西走しているうちに、声の気配は完全に消えてしまった。やがて脇腹に追加されたのは、じりじりと炙られるような痛みだった。熱い。痛い。痒い。いつ終わるのかと浅い呼吸を繰り返していくうちに、それはまたも全身に広がっていく。
──嫌、だ。もう嫌だ。楽になりたい。早く、早く、早く……!
固く、瞼を閉じた。どこか、遠くへ意識を飛ばしてしまいたい。これが悪い夢ならば覚めてほしい。現実の痛みならば、せめて幸せな夢を見せてほしい。
己の今の居場所が幻にあるのか現にあるのか、曖昧なままに。
彼女はそっと、意識を手放した。
* * *
鬱蒼とした森の中、ぽっかりと空いた空間で独り。静かに、密かに虫の息を繰り返す彼女を先に見つけたのは橘だった。が、すぐに彼女の元へ駆け寄ることはできなかった。
瞬時に思い出されたのは昨年の文化祭の時のことだ──もしや発作か、と。その文字が頭を駆け巡った瞬間にほんの僅か、一瞬なれど。恐怖心が足を地面に縫い付けた。そのほんの一瞬の逡巡が──先に発見したはずが──奏一郎よりも出遅れた一因となった。
風の抜けるように追い越されたかと思えば、すぐさま彼の背中を見つめる形となる。けれど不思議と奏一郎の所作は、こんなときでも緩慢そのものであった。
着物が汚れることなどお構いなしか。横たわる彼女の傍らに膝を折ると、彼はゆっくりと口を開く。
「……目を、覚まして」
焦燥の色は無かった。ただ、ぽつりと滲むのは。
「目を覚まして」
淡い淡い、懇願の色。
「目を開けて。起きて……起きてよ」
幼い子供が、深く眠る母親を遠慮がちに起こそうとしているかのような。妙な錯覚を橘は覚えた。奏一郎の表情は見えない。けれど曲がった背中は、微風にも容易く拐われる頼りない白髪は、少なくとも怯えているかのようだった。静かに、何かに。
肩を揺らすでもなく、名を呼び掛けるでもない、ただひたすらに「起きて、起きて」と繰り返す──。
……橘は暫し、その異様とも言える光景に目を奪われてしまっていた。それでも一本、また一本。足を縛る糸を断ち切って。そして一歩、また一歩。二人に──二人の世界に、近付く。
見れば小夜子の胸は上下に、不規則なリズムを刻んでいた。荒い呼吸。額に浮かぶ玉の汗。顔色に青みは無く、むしろ紅潮している。以前に見た発作とは症状がまるで異なる。
「発作……なのか?」
「いや、違うよ」
不自然なほどの素早い切り返しに、面食らう橘。
「彼女を心屋まで運ぼう。手伝ってくれ」
奏一郎の横顔は無表情だった。悲しみも焦りもそこには無い。そこには何も、無かった。




