第十七章:みえたもの ―卯月・中旬― 其の九
それだけ言って、純は固く瞼と唇を閉じた。見たくないものを見えないようにするかのように。吐き気を堪えているかのように。そんな純に芽衣ができるのは──せいぜい、背中をさすってやることくらいだった。純の発言の真意を汲み取れないのがもどかしい。だから今はただ、祈るだけ。小夜子の無事を祈るだけ。どうか……無事に帰ってきますように、と。
* * *
小夜子は一人、歩き続けていた。じんじんと痛む脇腹を押さえながら。また転んでしまうかもしれない……そんな不安が顔を俯かせる。土から大きく盛り上がった根っ子を避け、狭い木々の隙間を抜けて。その繰り返し。ひたすら繰り返し。脇腹の熱が、焦る心臓が呼吸を急かす。もしかしたら誰かが捜しに来てくれるかもしれない。じっとしていた方が良いかもしれない。もし冷静であったならそんな判断もできたかもしれないが、浅い呼吸はことごとく、その程度の判断力すら奪っていった。
そうしてただひたすらに歩いていくうちに、足元に花びらが散らばっているのが目に入る。淡い淡い鴇羽色で彩られたそれには見覚えがあった。歩を進めるほどに、足元はそれらで埋め尽くされていく。ああ、ひょっとして皆のいる所へ戻ってこられたのだろうか。喜びと安心感から、体に込めていた力が、思わずひゅるりと抜けていく。
俯かせていた顔を上げれば──飛び込んできたのは、開けた視界。
次に視界が捉えたのは、ぽろぽろと溢れ落ちていく桜の滝。この開けた空間を取り囲むように、桜の木がぐるりと群生していた。地面には桜のカーペット。土の見える隙間など無い。そして、辺りを見回せども人気も無い。皆の所へ戻ってこられたわけではなかったのだ……と肩を落とす一方で、小夜子は呑気にも綺麗だな、などと呑気な感想を心の中で呟いていた。脇腹の痛みも、束の間ながら忘れてしまえるほど。
「……ここがお花見会場でも良かったのに」
そう独りごちる。奏一郎のことだ、この森のことは熟知しているはず。当然、たくさんの桜があることも知っているだろうに。なぜ彼は花見の会場をここにしなかったのだろうか。
その答えは、視界の中心に鎮座していた。
断面に凹凸の走る、粗末な切り株。年輪を数えることもままならない断面は、相変わらず剣山のような棘を剥き出しにしていた。手を伸ばした瞬間、「触れてしまえば、怪我をしてしまうかもしれない」。奏一郎にそう言って止められたことを小夜子は思い出す。
そう、彼女は以前にもここに来たことがあるのだ。「奏一郎の生まれた場所」へ。
きゅっと握った手のひらにじわり、汗が滲む。この切り株に触れるべきではない──そう誰かが、目に見えぬ誰かが諭しているような気がして。
途端にぶり返す、脇腹の痛み。切り株を背に桜のカーペットに腰掛け、小夜子はゆっくりとそこに寝そべった。やはり横になっている方がだいぶ気楽ではある。しばらくこうしていればこの痛みも和らいで、また歩き出せるようになるだろう、と。ほっと息を吐き、空を仰ぐ。
桜の木々がそれぞれに、自前の腕をいっぱいに伸ばしていた。数多の細い枝たちが、青空をふわりと取り囲む。雲一つ無い青空を背景に、花びらが舞っていく。代わり番こに次から次へ、ひっきりなしに続いていく無音のダンス。
この空間に身を投じながら、委ねながら、そっと瞼を閉じてみる。 車の音も聞こえない。人の話し声も聞こえない。遥か、遠く、遠く。ちらちら、ちらちら、と。桜の散っていくわずかな音、己の鼓動の音さえ聴こえてしまえそう。先ほどまでの憂いさえ、忘れてしまえそう。
このままだと寝入ってしまう……小夜子は徐に瞼を開いた。……瞬間、違和感が視界に走る。今まさに目の前に広がる光景と、“何か”が重なる。同じ写真のネガを何枚も重ねたかのような──フラッシュバック。以前にもここに来たことはある。去年の秋のことだ。しかしこうして横たわるのは初めてのはずだ。おかしい。既視感を覚えるのは妙だ。それに去年の秋なんてつい最近のことじゃないか。この感覚は違う。懐かしさすら思わせるこの感覚は、もっと遠く……遥か、遠く、遠く。
──ずっと前から、私は……ここを知ってる?
己からの問いに答える者はいない。が、右腕は自然に──小夜子の意志とは遠くかけ離れたところからの指示でもあったのか──空に伸ばされる。ひらりと触れる、花びら。くすぐるようにそれは腕を伝う。手のひらに乗り、微風にまた煽られて……。
──違う。違う。あの時……舞っていたのは桜なんかじゃない。
決して優しくて、温かくて、見ていて穏やかになれるようなものじゃなかった。
痛くて、熱くて。何かが焦げるような……嗅いだことのない匂いがして。噎せて、咳き込む。呼吸は浅く、息苦しくて。瞼が重くて、開けなくて。それでもなんとかこじ開けて、空に伸ばされた己の右腕を見る。
舞っていたのは──やはり桜なんかじゃ、なかった。
その答えを理解した時だった。
「な、に……これ……」
和らいだはずの脇腹の痛みが広がっていく。腹へ、胸へ、腰へ。這うようにそれは全身へ。痛みはやがて熱へと変わる。そしてまた痛みへと。
満足に、息ができない。声を出すこともかなわない。浅い呼吸が邪魔をする。ズキン、ズキンと頭痛が走る。脳みそを絞られているかのような。
……こんな痛みの最中にも、夢を、見ているのか。声が聞こえる。大人のものではない。
「……鬼灯……は……り」
声変わり前の少年の声。それがなぜか背後からではない、今回は耳元から聞こえる。近くにいるのなら声の主を見たい。そう思っても、瞼が重くて開けない。……だから、その声に耳を傾けるしかない。痛みを紛らすために、ただ、ひたすらに。
「鬼灯の花言葉は……」




