第十七章:みえたもの ―卯月・中旬― 其の八
そこで、だ。周囲を見渡し、おや、と奏一郎が首を傾げたのと、
「……あの子は? すれ違わなかったのか?」
橘がそう発言したのは同時だった。
「あの子」という台詞に、皆がきょろきょろ視界を揺らす。けれども全員の脳裏に真っ先に浮かんだのは小夜子だ。
「……すれ違わなかった……よね」
ぽそり、声色を落とす静音。笑みこそ浮かべてはいるが顔色は冴えない。
「いなかったと思うけど」
そういえば、と付け加える純。傍らには金魚さながらに口をパクパクとさせる芽衣。
「電話してみる!」
携帯電話を耳に当てる静音──けれどもほんの少しの間を置いて、着信音が辺りに響く。持ち主の元から離れたそれを拾い上げたのは桐谷だ。蓙の上に鎮座していたところを見ると、恐らく靴を履く時に持っていくのを忘れてしまったのだろう。
「さよさよの……聞きしに勝る、ドジっぷり」
虚しく残響する、五七五。
数ヶ月前のことを、橘は忘れていなかった。人気の少ない夜道を歩く小夜子。彼女を追いかけて声をかけてみれば帰り道だと、心屋へ帰ろうとしていたところだと答えたことを。けれども彼女が向かっていたのは心屋とは正反対の道だったことを──。
そう、小夜子は……方向音痴だということを。
「捜してくる」
すくっと立ち上がり、颯爽と歩き出した橘。それに続いたのは芽衣だ。
「わ、私も……っ」
「いや。迷っているだけならまだしも、もしかしたら怪我をして動けないのかもしれない。いざというときに彼女を運べる者が行った方が良いだろう」
そう言われた途端、膨れてしまう。言外、なれど。まるで役立たずだと言われているみたいで。そんな芽衣を差し置いて、着々と会議は進む。
「奏一郎! おまえはこの森に詳しいよな?」
「うん、もちろん」
実に爽やかな笑顔で答える奏一郎。この非常時に何てやつだ、と橘の心はチリリと燻る……が、今は憤っている場合ではない。
「俺と奏一郎の二人で捜しに行く。もしかしたらあの子は自力で帰ってくるかもしれないから、そのときは俺に連絡してくれ」
「気を付けてね……」
おにぎりを食みつつ、桐谷は森の奥へと消えていく友人の背中を見送る。誇らしげに、ほんのりと笑みを浮かべながら。
「少なからず酔ってるはずなのにあの迅速な対応……ほんと惚れ惚れするよね……」
「お兄ちゃんの友情って何て言うか……時々すごくギリギリだよね……!」
冷や汗の止まらない静音。それは兄の発言に肝を冷やして、というわけではない。それだけでは、ない。
「や……やっぱり私も捜しに行きたい、なぁ」
「んー?」
「だって……だって小夜子がこんな風にいなくなるの、初めてじゃないから。お兄ちゃんだって知ってるでしょ?」
すぐ近くにいる芽衣を気遣ったのか、静音の視線は泳ぎっぱなしだ。
「文化祭の時は……発作を起こして病院に運ばれて、だったから。だから今……怖い。小夜子の身に何か起きてるんじゃないかって思っちゃう」
「……なるほど……」
食べかけのおにぎりを置いて、桐谷はちょこんと体育座り。
「じゃ、食べないで待っていよっか」
その一言に、静音の表情はぱっと明るく光る。
「験担ぎってやつだね!」
「まあ、それもあるけど。こういうのはきっと、皆で食べるから美味しいんでしょ……」
「うんうん、そうだね! そうだよね!」
ちょこんの隣、またひとつちょこんと。体育座りが二つ並ぶ。
対して落ち着いて座ってなどいられない、笑ってなどいられないのは芽衣だった。
「私も……やっぱり行くべきだったか」
嫌な鼓動を打つ心臓が、独り言に拍車をかける。あんな男に任せるしかない、何もできない自分が歯痒い。幸いにもその小さな独り言を拾ったのは、どうやら弟だけのようだ。
「いや……どう考えてもこういうときは男手のが良いでしょ。ちょっと冷静になりなよ」
「そうだけど……っ」
言いかけた台詞を、固く閉ざされた唇が阻む。
「純……なに、その顔!?」
「……はは、気付かれちゃったか」
元より白い肌を青く染め上げて、純は薄い笑みを浮かべていた。それはそれはあまりにも弱々しい、今にも消え失せてしまいそうなほどの。
「姉ちゃん、ここは……たぶん、最初は森なんかじゃなかった。誰かが……誰かが森にしたんだ」




