第十七章:みえたもの ―卯月・中旬― 其の七
「けど、この店そのものより森の中の方が気になる」
「森……」
純の言葉に、芽衣は店の奥へと意識を集中させる。不気味なほど静かで、光を遮るその空間はたしかに、何の変哲もないとは到底言いがたい──一種の禍々しさすら覚える。臓腑を柔らかい手で何度も撫でられているような。心地よさと隣り合わせの、うっとおしさもある……そんなまどろっこしい感覚だ。
「で、小夜子先輩はまだなの?」
純が声をかけると、静音はおや、と振り返る。
「まだみたいだね~。そろそろ来てくれてもおかしくない頃だと思うけど」
そのやり取りの最中、店の奥から人の気配。
「やぁ、三人とも。よく来てくれたね」
たぷんと音を立てるヤカンを手に、妖しげな碧眼を細めて。
「奏一郎さん、こんにちはー! 今日はお招きあただきありがとうございまーす! でも、小夜子が迎えに来るものと思ってました」
「ああ、僕はお茶を取りに来ただけなんだ。ちょうどいいと言ってはなんだけれど、ついておいでよ」
「お邪魔しまーっす」
ぴょんぴょんと跳ねるように奏一郎の後を追う静音。その背中をしばらく見つめて、純は目を見張るのだった。
「……知らないんだから仕方ない、とはいえ。警戒心無さすぎない、あの人?」
「ああいう子なんだよ……」
先程までの張り詰めた空気も、静音の一声とでも言おうか。明朗な彼女につられて一気に弛緩する。まるで本当に、ただの楽しいお花見に参加するためにここに来たかのような感覚に陥ってしまう。
「……忘れないでよね、姉ちゃん。ただ花見に来たわけじゃないんだから」
「そっちこそ」
そんな短い応酬の最中にも、静音は木々を掻き分けていく。ほんの少し目を離しただけで、もう彼女の姿は髪の毛一本すらも見えなくなってしまった。
「二人ともー? 早く行こうよー!」
明るい声が、狭い隙間を縫って姉弟を誘う。誘われるままに心屋の脇をすり抜け、猫の額ほどの畑を通り過ぎて──そこでぴたり、純が足を止めた。目線の先は爪先だ。
「どうしたの?」
「…………」
芽衣が問うも、純は何も答えない。
彼の足元には石ころが転がっていた。どれも大きさは同じくらい、成人男性の握り拳程度。足を止めるほどの価値もないことは一目瞭然だ。何の変哲も異様さもない、ただの石なのだから。……一つではない、数えきれないほどのそれがいくつも並び立っていることを除けば。
「……姉ちゃんは何も感じないわけ?」
「ううん、微かに感じる。……小さくて、とても弱いけれど。確かに何かがここにいた……」
声を潜める二人。……しかしこれ以上、会議が煮詰まることはなかった。
「もー! なにしてんのってば!」
ひょこり、静音が顔を出す。
「奏一郎さん待たせちゃってるんだから、早く行くよー!」
「はいはい」
勢いのある声に引き寄せられるように、再び歩き出す二人。生い茂る森の中へ、とうとう足を踏み入れる。……刹那、風が首筋を撫でた。波打つ黒髪が容易く拐われる。まるで森が呼吸をしているかのよう。幾千もの木の葉の歓迎に、揺れる枝の手招き。喉を上下させながらも、芽衣は意を決して静音の後に続いた。
道のりは複雑だった。枝を掻き分け、盛り上がった根っ子を避け、太い樹木の隙間を抜け、倒れた丸太をひょいと飛び越え。奏一郎の案内無しにはきっと目的地まで辿り着けなかったろう。
窮屈な森を抜けると、そこには大きな桜の木。そしてその下では宴会が開かれている。蓙に腰かける橘と桐谷の姿に、芽衣は強張っていた体を一気に弛緩させた……というより、力が抜けてしまった。
純から聞いていたので芽衣は知っている。「橘という男は、奏一郎が人間ではないとわかっている」と。にも関わらず、だ。そんな相手の懐のうちに呑気に飲酒をしているのだから、芽衣にとって橘は「ただの花見に来た静音以上に警戒心の無い男」にランクダウンだ。




