第六章:きえるもの ―長月・中旬― 其の壱
〈注意事項〉この章から、いじめを思わせる描写が増えていきます。
いつからだったろうか。
君に抱いたこの気持ちは。
いつからか、心に棲みついて。
いつの間にか、それは宝石みたいに煌めきだして。
僕を恐怖に、陥れたんだ。
* * *
厳しい残暑。灼熱の太陽は雲に覆われることなく、その絶大な存在感を地上の人々に知らしめている。アスファルトはもはや熱せられたフライパンだ。
そんなうだるような暑さの中、スーツをきちんと着用し、髪もきちんとまとめた橘が、とある会社の門前に立っていた。『桐谷建設』と書かれた看板を確認し、敷地内に入っていく。
数年前を最後に訪れた時よりも幾分、会社も大きくなったように感じられる。数え切れないほどのショベルカーも、塀に沿うように整然と並べられ、どれもワックスでぴかぴかに磨かれていた。
ショベルカーの列を我慢強く歩いていると、自然、緑色の小屋に辿り着く。ペンキの剥げた箇所は所々錆びていて、赤茶色が目立った。橘は小屋の扉をニ、三回ノックをしてから、口を開く。
「桐谷。俺だ」
しばらくして扉がゆっくりと開く。垂れた目を眠たげに擦りながら小屋から現れたのは、桐谷 由良だった。
短く、ところどころ寝癖でふわふわと跳ねる路考茶の髪。みすぼらしくくたっとした青緑のツナギを着る彼は、社長子息にはどうしても見えないのだった。
「……きょーや。眼鏡だ……スーツだ……。どうしたの? ……あ。『突撃、隣の晩ご飯』……?」
小首を傾げて、ぼーっとした目でこちらを見つめてくる。寝ぼけているのだろうかと橘は一瞬だけ思ってしまったが、すぐに思い返す。この桐谷という人物は昔から、日がな一日中こんなテンションだ。
「……見舞いに来たんだよ。佐々木氏の事務所に突っ込んだ時、怪我をしたと聞いたからな」
「……怪我を心配してくれる友達の気持ち……プライスレス……」
――……相変わらず変な奴だ。
桐谷に手招きされ、橘は中に入った。小屋の中はお世辞にも綺麗とは言えず、雑然としている。黒いソファには乱れた毛布、テーブルには雑誌、携帯電話、メモ帳、スケジュール帳、その他諸々が散乱していて、床にも書類、文房具、それだけならまだしも、救急箱をひっくり返したかのように包帯やら絆創膏やらがばらまかれていた。
足の踏み場が無いので、橘は思い切りそれらを踏んづけた。どんなに忙しくても身辺はなるべく片付ける性分の彼である。当然のことながら、眉を顰めて苦言を呈した。
「桐谷、少しは片付けたらどうだ」
「んー……そだねー……」
二人がけのソファの上の毛布を隅にどけつつ、橘に一人がけの椅子に座るよう、桐谷は促す。
「……あの時、電話してくれてありがとうな」
目線を逸らしまくりながらも、橘は礼を言った。
と言うのも、桐谷から市役所への連絡があったからこそ、橘は佐々木の暴挙を止めるべく、心屋に向かうことができたのだ。
桐谷は無表情のまま、向かいの椅子に腰掛けた。
「んーん。今回の担当者がきょーやって聞いた時から、電話しよっかなーってずっと思ってたから……」
緩慢な話し方は、高校生の頃から何一つ変わっていないなと橘は思う。
「で、怪我の調子はどうなんだ?」
言いながら、橘はケーキの箱を手渡した。
「ケーキだー。わーいありがとー。大丈夫……掠り傷だから。あ、お茶飲む……?」
そう言って立ち上がったかと思うと、桐谷はゆっくり頭を抱えた。
「あ、ダメだー……。昨日、湯飲み全部壊しちゃったんだった」
彼の言葉に、大して橘は驚かない。溜め息混じりに、
「……まだ、続いているのか」
言っていいのか、わからないことを言った。
「うん、何か……まだダメだねぇ……。お医者さんにも困った顔されちった……」
「お前、絶対に会社継ぐなよ…」
橘はため息を吐いた。建設会社の社長子息が破壊衝動を抑えきれない、なんて。洒落にならない。
桐谷はぼんやりとした表情のまま続ける。
「……今だってそう……、きょーやを見てると……。その眼鏡に指紋をつけたくなる」
「やめろ。絶対に俺の物に触るな」
刺々しい言い方にも、桐谷は動じない。その垂れ下がった眼を細めたかと思うと、気持ちよさげに欠伸をし出す。
「ふあ~ぁ……。まぁ……高校の時よりはマシになったって、思うけどね」
「そうじゃなきゃ困る」
「あー、高校と言えばさ……」
二人は高校生の時のことを思い出していた。先に口を開いたのは桐谷だ。
「きょーやって、よくよく考えるとまじですごかったよね……。学年でいつもトップで生徒会長やってたし……。周りからもすごく信頼されててさー」
「……いや、お前の方がすごかっただろう」
――お前に対する生徒からの苦情で、生徒会の目安箱がはちきれたんだぞ。
桐谷はうんと手足を伸ばした。体が鈍っているのだろうか。
「いろいろ壊したなぁ、あの頃は……。窓ガラスに机は当たり前……黒板にピアノに、蛍光灯にパソコン……」
「お前がやったのか、あのピアノ……」
やっと犯人が見つかった、と橘は思う。
「あ、あと教頭のカツラも……。あれは……事件だった」
「教頭、しばらく学校来なかったよな……」
今でこそ、目の前に腰かける桐谷は見るからにぼーっとしていて、大人しそうで捉えどころのない性格だが、高校時代において、彼は本当に問題児だったのだ。
県内で、彼を知らない高校生はいなかったほどである。
「きょーやだけだったよね……俺に注意したり、話しかけてくれたりしたの」
「まあ、そうだったな」
と言うのも、あまりにも素行の悪い彼の見張り役として、橘が教師陣から抜擢されたのが始まりだったのだが。
「きょーやは何か……周りに人はいっぱいいたけどさ。……自分からは誰かのとこには行かない奴だったから。だから……俺もきょーやには素直になれたんだと思う。……恵まれてるのに自分から独りになるきょーやは、自然と独りになっちゃう俺には新鮮だったから」
「…………」
『自然と独りになる』と聞いて、何故か奏一郎の顔が浮かぶ。
そうとは知らず、
「……今更ですが……あの時は話しかけてくれてありがとうございました……。寂しさ、無くなりました……」
桐谷は深々と頭を下げた。橘は少し呆れながら溜め息。
「お前なぁ……」
本気なのか冗談なのかいまいち掴みにくい。こういうところもまた、奏一郎を彷彿とさせた。
「……で、あの『心屋』ってどうなったの……?」
桐谷も、一応、気になってはいたようだ。
「ああ。佐々木が逮捕されて、老人ホームの建設は中止……。立ち退きは回避できた」
ケーキの箱を開けた桐谷は、ショートケーキとモンブランとチーズケーキのどれを食べるかで悩み始めた。
「ふーん……。きょーや、珍しいね」
「何が?」
「『回避できた』とか言って……嬉しそう。仕事には私情を挟まないタイプだと思ってた……」
「……そんなこと無いが」
橘が目を逸らしたのを、桐谷は見逃さない。
「んー。そーいや、あの店……けっこう昔から、何度もこういう危機に直面してたんだよねぇ」
橘が身を乗り出す。
「そうなのか?」
「ありゃ……知らなかった? バブル辺りから……いや、もっと前からかな? 土地開発にはもってこいの場所だったんだよ……。色んな成金が森を伐採して、テーマパークにしちゃおうとか……マンション作っちゃおうとか」
「……あの店、そんな昔からあったのか」
自然と、目が丸くなる。
「うん……でもね。全部、色んな理由で計画が破綻して、結局あの店は無事っていうエンディングなんだよね、いつも……。今回みたいに、さ」
結局チーズケーキを選び、桐谷は皿に乗せて食べ始めた。「うん、美味い……」と、目を細める。
「だから……俺らの業界ではあの辺は、手を出しちゃいけない"聖域"って呼ばれてんの……」
「そうだったのか」
外見から推察するに、奏一郎はせいぜい二十五、六だ。つまり、心屋には、奏一郎の前にも主人がいたということになる。
桐谷が、お茶のペットボトルを開封する。しかし飲み口に触れる前に、突然、彼の動きが止まった。
「……あの時……事務所にショベルカーで突っ込む直前さ……」
「ん?」
「『死ぬかも』って思った。足、動かなくて。ちょっと怖いと思った。でも、何だろ。……いつの間にか、外に出されてて……」
「は……? ……外に出た記憶が無いのか?」
「……ううん。ていうか……誰かに出された、みたいな。そんな気がした。……俺の脳みそも、ついに限界極まれり……?」
「…………」
世間一般的に見れば、桐谷は決して“まとも”な人間とは言えないだろう。だが、彼の言うことに嘘があるとも、橘には思えなかった。
――あの瞬間。身を挺して、俺は『心屋』を守ろうとしていた。
佐々木の暴挙に対する不満と、人を護りたいという想いが、あの猫をきっかけに突き動かされたからだ。
命にかかわることではあったが、そのおかげで、自分は『自分の仕事』を思い出すことができた。
しかし、あの猫は“本当に”、“偶然に”あの場所にいたのだろうか。誰かが意図的に、なんてことは無いだろうか。
猫がいたのも、桐谷のショベルカーが佐々木の事務所に突っ込んだのも、それで不正が発覚したのも、桐谷が助かったのも、全てが『偶然』の一言で片づけられてしまうのだろうか……。
佐々木が逮捕されてからも、橘はずっと、それだけが疑問だった。
――ここに居続けるためなら、どんな犠牲も厭わない――
そう、妖しく微笑みながら奏一郎は言っていた。
あの場所に居続けるために邪魔な人間、佐々木を社会的に抹殺した――。
今までと、同じように。
そう考えるのが、一番自然だ。
しかし、ここで橘は自分の思考を留めた。
――……いやいや、待て。奏一郎の前に、『心屋』を経営していた人間がいる。だとしたら――。やはり、全て偶然……なのか?
「てかさ……何で未だに『心屋』にご執心なの? まだなんか関わってんの……?」
ぼんやりとした声が、橘の思考を遮った。本当にこの友人は、変なところで勘が鋭い。
「……ああ……何か、一応……“友達”ということになっている」
言葉を濁しつつも、橘は答えた。
「……? 『なっている』とは? ……どーゆーこと?」
桐谷の頭上にクエスチョンマークが出現する。橘自身、よくわかっていないので、曖昧な返答しかできない。
「あー……と。女の子がいたろう? 心屋に」
桐谷が目線を左上にしてから、ぽんと軽く手を叩く。
所作がいちいちゆっくりなところは、本当に昔から変わらないなあと、橘は思った。
「ああ、店を取り壊すの、勇敢にも止めに入ってきた女子高生か……。……いいよね、セーラー服って……」
「なっ! ……に言ってんだおまえ!」
途端に橘が顔を赤らめた。この手の話が苦手なのは、昔から変わらないなあと、桐谷は思った。
「そういう話じゃないだろう! ……桐谷、おまえ、そんな趣味があったのか……っ?」
「高校卒業してから覚醒した……。もっと早く目覚めてればよかったと思っている。……まあ、続きを話しんしゃい。その子がどうしたの……?」
橘が、言葉を濁しつつ説明する。
「……あの子が、『もう二人は友達なんじゃないですか』って言うから、何と言うか……乗せられて……」
「ほぇ……。そーゆーこと。すごいね、その子……」
見ると、チーズケーキを口に運ぶ動作が止まっていた。
「人と人を繋げる、なんて……なかなかできないよ。壊すのは簡単だけど。繋げるのって、人が思ってる以上に難しいから……」
「……言われてみれば……そうだな」
人間関係をうまく築く術を知らない彼の言葉には、重みと説得力があった。
『心屋』において、奏一郎にばかり気を取られてしまうことが多いが、もしかしたら、あの子も侮れないのかもしれない――。
橘の真剣な思考を、またもや桐谷は遮る。
「……てか、さ。そういやあ、大丈夫なの? その子」
「え?」
「だって……『心屋』の主人だってもういい大人の男でしょ。それが女子高生と事実上同棲……って、危なくない? 犯罪の匂いしない……?」
「……え、あ」
――そういえばそうだ。……俺、それについて注意……したか? 奏一郎に。……いいや、してない!
だんだんと、橘の顔が蒼白になっていく。それでもなお、桐谷は続けた。
「あの辺り、もう家も人も少ないから、あの子がたとえ何かされてもだーれも気づかないよ……。……つーかぶっちゃけさ、何でもできるじゃん……」
「帰る!」
橘が急に立ち上がったので、桐谷は皿を落としそうになった。
「マジ……? あ。そういえば、きょーや……スーツってことは、お昼休み抜けて来てくれたんだ……? すげー嬉しー……。また来てね」
「ああ、お大事に。また来る」
「んー……忠犬ハチ公並に待ってる……」
橘が急いで出ていくと、錆だらけの扉がキイキイと音を立てて半開きの状態になる。それを見た桐谷はフォークを口にくわえたまま、「いい加減古いか……扉、直さなきゃなぁ……」と独りごちると、箱の中で手付かずの二つのケーキのどちらを食べるかで、迷い始めた。
「麗しきショートケーキか。気高きモンブランか。どっちにしよ」
橘と久々に話せて相当嬉しいのか、彼は大好きな歌を、替え歌で口ずさんだ。
「あっいっと、きょーやだけーがとーもだっちさぁ……」
* * *
一方その頃、橘は自分を責めていた。
――……何故……もっとそのことを追及しなかったんだ……。俺は阿呆なのか……?
いや、阿呆だ俺は! 確定だ! くそ……!
橘は、急いで『桐谷建設』を後にした。今日の仕事を早々に切り上げて、『心屋』へ向かうつもりなのだ。




