第十七章:みえたもの ―卯月・中旬― 其の五
男は、枝を掻き分けて。樹木の間をすり抜けて。太った根っ子をひょいと避け。それらを何度も繰り返す。単調な流れ作業にも似たそれだが、奏一郎は薄い笑みを絶やしはしない。
賑やかな声が頭の中で、何度も何度も──姦しいまでの注意喚起を促すものだから。
「まあ、いいじゃない。バレちゃったところで困ることなんか何も無いんだし」
もしここに人がいたら、きっと独り言をこぼしているように見えたことだろう。けれども彼は、きちんと会話をしていた。焦燥感を募らせる声色を、頭の中で響かせながら。
くすくすと漏れる笑い声を、風が拐っていく。
「へぇ、さよが? ふふ、きっとそれはそれは焦っているだろうねぇ」
きっと眉を八の字にして、どうにか誤魔化そうとしどろもどろになって。でもやがては口を割ってしまうのだろう。想像しただけで思わず口元が緩む。
そんな最中にも頭の中で、叱りつけるような声は響く。しかしそんなものは、どこ吹く風。
「へぇ。僕が魔法使いって? 仙人って? ……本当に桐谷くんは面白い子だね」
その台詞には呆れより、感心めいた色が目立つ。
「まあまあ、いいじゃないか。『三人寄れば』……と言うけれどね。話し合ったところでわかるものでもないだろう?」
頭の中の声が、やがて諦観に満ち始める。声は徐々に小さくなっていき……そしてついに聴こえなくなった。
故に──ここからが本当の、独り言だ。静かな、静かな独り言。
「わかるわけない。……僕にだってわからないんだから」
口許は笑みを、形作ったまま。
* * *
奏一郎が「巡るもの」であること。人間ではないため、人の心を持たないこと。けれど物を通してであれば心を読めること。そして彼が歳を取らないこと。……小夜子は結局、洗いざらい話してしまった。
「えーっと、心屋さんは巡るもの……つまり『未来がある程度予見できるしそれを事前に防ぐこともできる』、しかも『過去から現在に至るまでの人の心が物を通して読める』……ってとこ?」
「は、はい……」
こんな話、誰も信じないだろうに。桐谷はうんうんと何度も頷くのだった。さらには、
「まじか。すげぇね」
疑うことなく、この薄口の反応。
「あー、でもなるほどね。前に心屋さんが知ってるはずないことを言ってたのにも納得した……」
「……俺も合点がいった」
奏一郎が人間ではないことを、そういえば橘はずいぶん前から知っていただろうに、と。小夜子は首を傾げる。しかし、すぐに疑問は解消される。彼はきっと──何も訊かずにいてくれたのだ。
「ん? ……てことは俺らが爺さんになっても心屋さんは今のままってこと?」
「……そういうことになりますね」
言い終わるのと同時に、おにぎりを食む。咀嚼している間は、何も言わなくて良くなるから。
「そっかー。でも、それじゃ……」
桐谷の言わんとしていることがわかる。わかるから、続きの言葉を聞きたくなくて。今、耳を塞げたならそれはきっと……とても幸せなことなのだろうに。
「もういいだろう」
そう言って手で制してくれたのは橘だ。
「正体が何だろうが、奏一郎は友達なんだろ?」
「うん。フレンド」
「ならもう、それでいいだろ。友達をやめる、やめないの判断材料にするなら勝手にしろ……ってところだが。詮索する必要は無い」
橘の言葉に、桐谷は納得していない様子だ。しかし、
「そうこうしているうちに卵焼きが冷めるぞ」
……こういうのも、鶴の一声と言うのだろうか。桐谷はぱくぱくと、食事を再開し始めた。食い意地を張れど、行儀の良さも負けてはいない。食べ物を口に含んでいる間は彼は何も話さない。
ほっと胸を撫で下ろす小夜子。聞きたくない台詞を聞いてしまうところだった。橘は依然、日本酒に舌鼓を打っている。まるで小夜子の発言などすっかり忘れているみたいに。無かったことに、してくれているみたいに。
恐ろしく冷静で、心の機微に聡い橘だ。ひょっとしなくても、またしても。彼の気遣いに救われてしまった。
「角煮、美味いな」
「……ありがとう、ございます」
今日だけで何回目だろうか、感謝の言葉を舌に乗せてしまう。 そして……次の瞬間を、小夜子は見逃さなかった。眼鏡の奥、黒い瞳がたしかに、ふっと和らいだのを。
目立たない、ほんの刹那の彼の笑みが──小夜子は少し、苦手だ。何故ってそれは、見とれてしまうから。




