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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十六章:ちかうこと ―弥生・下旬― 其の五

「さよ。前に、フチタローの名前の由来を訊いたろう?」

 ああ、そういえばと小夜子は思い返す。

 名前の由来を聞いた彼は、妙に納得していたっけと。そうか、そういうものだよなと言って。引き続き夜空との睨めっこに勤しみ始めたのも記憶に新しい。


「僕はね、さよ」

 流れ星を探す奏一郎の瞳は、星のようにきらめいて。年不相応で、あまりにも幼く……ずっと眺めていたいと思わせた。

「……僕だったら、君の名前にどんな願いを込めるだろうって考えていたんだ」

 穏やかなトーンで紡がれる。少し照れ臭そうに弾むその声を……ずっと聴いていたいと。


 奏一郎の声は、まるで物語を紡ぐようだった。こんな話があるんだ、と小さく呟くものだから。


「一人の船乗りがいた。夜の海。ひとりぼっち。わけあって遭難してしまったのだ。手元に地図はあれど、それを照らす灯りも無く。ただ視界に映るのは、果てしなく続く暗い水平線。広い大海原に、彼は一人きり。……だから彼は、首を上向け夜空を見る。星を読む。星は笑う。チカチカと瞬く。こちらだよと、手招きをして。だから、船乗りは進む。夜の海を、たとえ一人でも。それでも進む」


 夜に眠りに就く前の、絵本の読み聞かせを思わせる。なぜなら彼女は声に乗せられるまま、自然と目蓋を閉じてしまっていたから。真っ暗闇の中、懸命にオールを漕ぐ船乗りがスクリーンに映る。オールが掴む波の重み、跳ねる水飛沫(みずしぶき)も。頬を伝う汗も。夜空に光る満天の星空も。記憶を手繰り寄せるがごとく、鮮明に映し出される。


「……人生はね、それなりに長いから。道に迷ったり苦しかったり。いつもみたいに早起きできなくなったり、眠れなくなったり。ごはんを美味しく感じなかったり。誰かの幸せを喜べなかったり。そんなことしたくないのに、周りや自分を傷付けてしまったり。きっと今までもこれからも、たくさんあるでしょう?」


 そういうとき人は頭が重たくなって、どうしても下を向きがちだけれど、と奏一郎は前置きする。


「けれどね。どんなに苦しくても辛くても、悲しくても、上を向いて。それでも上を向いてほしい。光を探すことを諦めないで、忘れないでほしい。強く生きて。生きてほしいって。……僕だったらきっと、『小夜子』にそんな願いを託すよ」


 自分のためだった。近頃の彼の思案顔は、己に向けられたものだった。


 小夜子は思わず、彼からぱっと視線を逸らした。視線の先は足の爪先。けれどやがて瞳にじわりと浮かんできたそれを振り払いたくて、気付かれたくなくて──首を上向ける。


 ……星が、笑っていた。笑い声が聞こえてきそうなほどに星々はきらめいて、広い夜空を独り占めにしている。じっと見つめていると、己を疑いたくなる。本当に地に足を付けているのかと。ここから一歩も動いていないはずなのに、ふわり。まるで宇宙空間を旅しているみたいに感じてしまう。

 十七年前の今日、母も──同じように空を見つめたのだろうか。


 ──……なんだか……もう一度名前を付けられたみたい。もう一度、この世に生まれてきたみたい。


「……上ばかり向いて、首が疲れちゃったらどうするんです?」

 我ながら可愛くない質問だなと小夜子は思う。照れ隠しだった。だって、予測なんてできるはずもなかった。約束と、名前。特別なプレゼントを二つも貰えるだなんて、誰が予測できようか。

 小夜子の質問にほんの少し、困ったように彼は笑って、

「うーん、そうだなぁ……時々なら、ね。時々なら、下を向いてもいいよ」

 柔軟な台詞を空に放つ。


 会話が途切れるのが少し切なくて。小夜子は自然と口を開いてしまう。

「あの……奏一郎さんの名前の由来って何なんですか?」

 ただの世間話のつもりだった。「知らない」でも「わからない」でもいい。もっと奏一郎の声が聴きたかった。彼のことを、知りたかった。


 きょとん。奏一郎の表情は、まるで考えたこともないとでも言いたげだ。しばらく考えた後に返ってきたのは案の定、「知らないなぁ」だ。


 彼は、「知らない」「わからない」という返答が多いことがある。それも決まって彼自身への質問をしたときだ。知りたいと、わかりたいと思うからこその質問なのに──考えたくはないが──上手くかわされているような。彼のことだから単に、自身への興味が限りなく浅薄なだけかもしれないが。……けれど、今日は違った。「知らない」に、続きがあったのだ。


「もう一つの名前の方は知ってるんだけどね」

「もう一つ……? 奏一郎さん、名前が二つあるんですか?」

「まあ、あだ名みたいなものだよ」


 奏一郎の、あだ名。彼をあだ名で呼ぶ人がいたのか、と。それはどれだけ親密度が高い相手なのだろう……そこまで思考を巡らせたところで、ストップ。またつまらない嫉妬心で心臓をざわめかせたくない。


「あだ名の由来はね、僕の考えたさよの名前の由来と、ひょっとしたら似てるかもしれないね。……いや、似て非なる、が正しいな」

「え……そうなんですか? 教えてくださいよ!」

「……『たとえ』……」


 その一言一句を、彼はどうやら覚えているようだった。ゆっくりと、けれど淀みなく。まるで流れ作業のように淡々と、彼の唇は続きを放つ。


「『たとえどれだけ深い悲しみに包まれようとも。泥土(でいど)を漂い続けますように。けれど決して黒に染まることなく。その白い花を見せてくれますように。その花を咲かせるまで……生き続けますように』と」


 似て非なる、と彼は言った……その通りだった。小夜子は己の心臓が、結果的にはざわめいてしまったことを自覚しなくてはならなかった。奏一郎の考えてくれた己の名前の由来は、聞いた瞬間にまるで一筋の光が射したみたいに感じたのに。「どんなに苦しくても、生き続ける」。同じようなことを言っているのだろうに何故、こうも響きが違うのだ。


 ……名前に込められた想いが違うのか。

 言葉の一つ一つに、その端々に込められた想いが、願いではないのか。願いではない、祈りでもない。それではまるで──。


「……ねえ、さよ」

 奏一郎の声が、思考を(はば)む。

「僕の名前を呼んで?」

 何の前触れもない唐突な要求に面食らって──思考回路は渋滞を起こす。

 柔らかな笑みこそ浮かべてはいるが、彼の眼差しは真剣だ。何かを誤魔化すような素振りもない、本当にそうしてほしいのだろう。そう察した小夜子は素直に頷き、愛しい人の名を言の葉に乗せた。


「奏一郎さん」

「もう一回、じゃなかった。たくさん呼んで?」

「奏一郎さん。奏一郎さん……奏一郎さん」

 弾むように、時にはゆっくりと。言われるがまま何度も、何度も彼の名を呼ぶ。その度に奏一郎の瞼が、ふわりと碧眼を包むから。弛緩した表情に、ほっと胸を撫で下ろしてしまうから。安心感を覚えてしまうから。


「ありがとう、さよ」

 落ち着いた声を耳が拾う。

「今になって気付いたよ。僕はね、自分のあだ名が好きじゃないのさ。それをさよに呼ばれたら、きっと……」

 ここが、と言いながら奏一郎は、胸の中心に手を当てて。

「とても、寂しくなってしまうだろうから」


 空色の瞳が、揺れる。彼の眼そのものに、唐突に命が宿ったかのよう。それが左手の鬼灯のせいかは知れない。ゆらゆら、ゆらゆら。綺麗で、孤独で、孤高で、美しく。……寂しい色を、滲ませて。

 釘付けになってしまう。視線と心の両方をいっぺんに奪われてしまう。だから小夜子は、先ほど強く感じたことすら忘れてしまいそうになるのだ。


 彼にかつて込められた想いが願いではない、祈りでもないとすれば。まるで──呪いのようだ、と。

春の訪れるその前に、一つちかいを立てましょう。


次の春の訪れに、果たすちかいを立てましょう。


〈第十六章:ちかうこと〉 終

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