第十六章:ちかうこと ―弥生・下旬― 其の四
そこで、膨らんでいた風呂敷がついに解かれた。小夜子も実は、彼の右手のそれが気になっていたのだ。プレゼントがあると言った。ひょっとしたらそれが、右手の風呂敷の中で今か今かと出番を待っているのではないかと。
けれど風呂敷からまず出てきたのは、重なる鈍い金属音──シャベルだ。小学生の時の芋掘り大会で支給されたのとまったく同じシャベルだなぁ、懐かしいなぁと小夜子は一瞬で思いを馳せる。はい、と言って手渡されたのだから彼のケアレスミスということはない、彼が渡したかったのはこれなのだろう。手持ちのシャベルだ。つまり、突き詰めていっても果てしなくどうしようもなくこれ以上無いくらいシャベルなのだ。
「あ、言っておくとこれがぷれぜんとってわけじゃないぞ」
「そ、そうですよね……! 思わず頭の中が哲学じみてしまいました……!」
混乱から解けたばかりの小夜子を差し置いて、奏一郎は膝を折るとシャベルで地面を掘り始めた。小夜子もそれに続く。固い土だ。けれど掘り進めるにつれて湿り気をおびて、ほろりと柔らかな土に早変わり。
「奏一郎さん、何か埋まってるんですか?」
数十センチは掘っただろうか、右手の筋肉が悲鳴を上げる。それでも奏一郎が思っていた以上に深くまで掘り進めるものだから。
「埋まってるんじゃない、埋めるんだよ。……正確には植える、かな」
さらに深く掘り進めること、数分。よし、と独りごちた彼はそそくさと心屋の陰に消えてしまった。緩慢な所作の多い彼にしては珍しい。待機していた方が良いのか、それとも付いていった方が良いのかどうか考えあぐねている間に──白髪を揺らしてひょこりと戻ってきた。両の手に、苗木を抱えて。
まっすぐに伸びる頼りない……細長い木だ。線の細い奏一郎も軽々と運べるほどの。実際、苗木から引き抜き穴の中心に下ろした瞬間にも、それほど力を込めているようには見えなかった。小夜子の身長とそう変わらない。
先ほど掘り返した土を二人でかぶせていく。シャベルで柔らかく解されたそれは、根っ子をすぐさま覆い隠してしまった。
静かな夜だ。ほんのりと橙色に照らされた周囲には、人の気配も動物の気配も無い。きっとまだ、虫だって土の下でゆっくりと眠りに就いている頃だろう。時折、ゆるやかに吹く風がいたずらに木の葉を揺らめかせるだけ。そして土の重なる音……掌の上、さらさらと。奏一郎と、自分の息遣い。鼓動の音さえも高らかに、耳にしっかりと届く。静かな夜、のはず。けれど「生」がこれでもかとばかりに叫んでいる夜を迎えるのは、生まれて初めてだ。
奏一郎は掌にこんもりと土の山を作り、それを最後にぽんぽん、と。根っ子のすっかり埋まったそこに、仕上げとばかりに優しく叩いていく。
「さて、こんなものかな」
満足げにそう溢して、奏一郎は掌の土を落とした。
「奏一郎さん、この木は……?」
「これはね、春になると花が咲くんだよ」
桜が咲くよりも、ほんの少し前に。
そう付け加えて、奏一郎は目を細めた。
「今日みたいにたとえ桜が咲かなくても……この木が来年のさよの卒業式に。誕生日に、きっと花を咲かせてくれるよ」
小夜子は、ふわっと体温が上がったような心地がした。
「すごい……すごいです! どんな花なんですか!?」
「それはお楽しみに、ね」
「わぁ~、楽しみです……!」
受験生になって、勉強詰めになって、きっと静音や芽衣とこれまでのように楽しく遊んだりお喋りする機会も減るだろうに。それでも小夜子には来年の今日までのこの一年が、きらきらと輝きを纏ったように感じた。
どんな色なのか、形なのか。どれくらいの大きさで咲き誇るのか。想像しただけで小夜子の胸はどきどきと高鳴る。
けれど──同時に暗い陰りはじわじわと蝕んでいく。
きっと来年の今頃にはもう、父も海外出張を終えているだろう。自分が心屋にいる理由は、そんな簡単なことで失われてしまうのだと。否、来年と言わず、もしかしたら冬が訪れる前に。秋が深まるよりも前に。夏が繁るよりも前に──。
「……来年の今日、さよがどこにいようとも」
奏一郎の言葉に、小夜子はハッとする。彼はまだ花の咲かないその細い枝に、視線を送りながら。
「僕は此処にいるよ。此処で、さよの誕生日と卒業のどっちもお祝いしてあげる。……約束」
差し出された小指に、そっと己の小指を絡ませる。土に触れたせいか、彼の小指はひんやりと冷たい。彼との約束は初めてではないけれど、こうして「約束」を形にしたのは初めてだ。先ほどの不安が解消されたわけでもないのに、こうして触れているだけでそれも忘却の彼方へ飛んでいってしまった。
「……さよが喜んでくれるかなって。どうしたら喜んでくれるかなって。どんな表情するかなって、たくさん想像していたけど」
右の小指を絡ませたまま……左の掌が、小夜子の頬を覆う。
「今のさよが一番、良い表情をしている」
冷たいはずの指がそこを撫でるごとに、頬は熱を放つ。長い前髪の隙間から碧眼が己を射抜く度に。心臓は一つ、また一つと大きく跳ねる。
微睡みに誘われたみたいに、小夜子は思わずゆっくりと瞬きをしてしまう。例えばの話だ。仮に、の話だ。このまま瞬きを繰り返し、やがて目蓋をきゅっと閉じたとしたなら。
彼はキスの一つでも降らしてくれるだろうか。
そんな……そんな淡い期待を抱いてしまう。けれどもし本当にそんなことが起こったとしたら。十七年間働き続けた心臓は、きっと一休みしてしまうだろう。そのままもしかしたら死んでしまうかもしれない。しかし心の奥底で一番怖いと思うのは──それでも構わないと思ってしまう自分がいることだった。
長い瞬きを繰り返した末に、小夜子はそっと目蓋を閉じた。目蓋の裏はまるでスクリーンのよう。奏一郎は何を思うだろう、何も思わないでほしい。何か言ってほしい、何も言わないでほしい。相反する気持ちがせめぎ合い、チカチカと暗い視界を照らしていた。心臓の鼓動が伝わってか、上下の唇が小刻みに震えているのを自覚する。奏一郎にもし気付かれてしまったら──きっとそれは、とてつもなく恥ずかしい。
願わくは──早く時間が過ぎてほしい。
かくて、時は刻まれる。小夜子の願いとは裏腹に、一定のリズムを保ちながら。数十秒、一分。
「……さよ」
ついに名を呼ばれる。反射的に、小夜子は左目、右目と薄く目蓋を開いた。するとそこには、
「今、流れ星が通ったの見えたかい? 早すぎて見えなかったかな?」
己など視界の外に置いて、夜空を見上げる男の姿があった。……心臓が、スローペースを取り戻す。
「見えなかったです。と言うより……見てなかった、です」
「そうか、勿体ない。なかなか立派なものだったよ?」
「さ、さようで……ようございましたね……」
にぱっと笑う奏一郎の表情に、緊張していた体は一気に弛緩してしまった。絡ませた小指はついに解かれ、右の頬を覆う掌もとうとう離れてしまった。名残惜しいなと。両手の持ち主たる奏一郎の傍ら、きゅっと己の裾を掴む。
また流れ星が来ないものかと碧眼に夜空を映して……実に楽しそうな彼を、横目で盗み見る。最近はずっとこうだ。夜空を眺めて一人で思案顔をしたり、考え事をしていたり。ここまで夜空というものは、彼を魅了するものだったろうか。
なぜいつも夜空を見上げるのか、と口を開きかけたその時だった。
「さよが生まれたのも、きっとこんな素敵な夜だったんだろうね」
言葉を失ってしまうような台詞を、彼がこぼしたのは。目線は依然、空に注いだまま。
「知ってるんですか? 私が生まれたのが夜だって。……あ、そっか。名前ですね?」
「いやいや、何となくさ」
「でもそうなんです、当たってます。お母さんやお父さんから聞いたわけじゃないんですけど、辞書で調べると、『小夜』ってそのまま、『夜』を意味するんですって。だからきっと私の名前って、夜に生まれたから『小夜子』なんだろうなって。……ほんと単純ですよね。名前の雰囲気も暗いですし」
十七年前、どうして両親は「小夜子」と名付けたのかを彼女は知らない。知らぬまま生きてきた。そして知らぬまま──訊くことは叶わなくなった。
なぜなら母はもう、この世にいないのだ。父だって、名前の由来なんか知らないかもしれない。だから訊けない。……「知らない」と言われるのが、怖いから。




