第十六章:ちかうこと ―弥生・下旬― 其の弐
今ここで時間は止まっても、また動き出す。そう間を置くこともなく他の誰かがまた、この教室で時を刻むのだ。
「小夜子、帰んないのー?」
背後の声に教室からぱっと目を離して、静音と芽衣の元へ駆け寄る。あの空間に心奪われたのはきっとほんの数秒のことだろう。けれど、小夜子の目には間違いなく、強く。夕暮れ色の教室が焼き付いた。
校舎を出ると、まだ満開とは程遠い桜並木とご対面だ。六分咲きといったところか、今年の冬は長かったからなぁと小夜子は開花の遅い桜たちを通りすぎていく。前方の二人は母方の実家に行くだの旅行に行くだのと、実に楽しそうに会話をしている。春休みの予定をじっくり煮詰めているところのようだ。
やがて、分かれ道。小夜子は二人に改めて「ありがとう」と感謝の言葉を口にした。「どういたしまして」と照れ臭そうに言う二人の表情に、心は温まる。
二人の後ろ姿、細長く伸びた影を見送って、ぽつん。一人になった小夜子は、奏一郎から以前教えてもらったことをふと思い出していた。そう、たしかあれは、大晦日の夜だったなぁと。
「……さよなら、か……」
教室を出ていくクラスメイト。三人で書いた「私たち年表」。赤いチョーク。ケーキの味。夕暮れ色の教室。照れ臭そうな笑顔。身長の違う二つの背中。
いつか、思い出さない──忘れる時が来るかもしれないのだ。
不意に、携帯電話が鳴る。開いてみれば一通の受信メール。差出人は担任の杉田だ。小夜子と静音、そして芽衣に宛てた一斉送信。「写真送るぞ」というシンプルなメッセージに笑みを浮かべつつ、添付されたたくさんの写真をじっくり眺めていく。どの写真の三人も、もれなく笑顔だ。たくさんの嬉しさと、ほんの少しの寂しさのブレンド仕立て。
小夜子は写真の全てを、アルバム機能に保存した。
「忘れたくないなぁ」
小さな独り言に、一滴の我が儘をぽとりとこぼして。
* * *
心屋に到着した時頃になっても、まだ遠くの雲の端っこには紫とオレンジの色が残されていた。近頃は日が落ちるのが遅くなってきたなあと小夜子は思う。
「奏一郎さん、ただいまです」
いつものように声をかけると、ひょこり茶の間から顔を出して、
「おかえりなさい」
と。今朝は「行ってらっしゃい」を言ってくれた奏一郎が、ふわりと笑顔でお出迎えだ。
「これからご飯の用意をするところなんだけれどね、何か希望はあるかな?」
「え? 私のリクエスト……と、いうか。希望でいいんですか?」
「もちろん。」
主役、と言った。奏一郎もまた、今日が彼女の誕生日であることを知っているらしい。
食べたいもの。二人で一緒に食べるもの。それを奏一郎は作ってくれるという。小夜子はまるでお姫様にでもなったような、少しくすぐったい気分だ。
「じゃ、じゃあそうですね、えっと……ハンバーグ! 久しぶりに食べてみたいです!」
「『はんばーぐ』。ああ、あの小判型のやつかな?」
「そんな反応じゃないかとは思ってました!」
天井を見上げ、うーん、と呟く。考え事をするときの彼の癖。何を考えているのかと黙視していると、やがて大きな碧眼はぱっときらめく。
「作ったことはないけれど、ハンバーグの作り方なら何年か前に調べたことがあったな」
そう言って、冷蔵庫から玉ねぎを取り出す奏一郎。まな板の上に乗せたかと思えば、あっという間に細かなみじん切りに仕上げてしまう。そして挽き肉を取り出して──手際の良さはもちろん、その素早さには驚かされるばかりだ。小夜子が急ぎ手洗いうがいを済ませ台所に駆けつける頃には、既に全ての材料がボウルの中で混ぜ込まれていた。これで「作るのは初めて」だなんて、誰が信じられようか。
「奏一郎さん、本当にハンバーグ作るの初めてなんですか……? 恐ろしく手際が良いですよ」
「そうだよ? れしぴを教えてもらったのは何年も前だけれど。僕は一度覚えたことは、忘れないからね」
あれ? と小夜子は小首を傾げた。
「でもこの間、あんずの名付け親については『忘れちゃった』って言ってたじゃないですか?」
「んー、そうだね。……言われてみればそうだねぇ」
ボール状になった種が、奏一郎の両の手のひらでコロコロと転がっている。その手付きに淀みは無い。小夜子の発言など意に介さないと言わんばかり。
「そうだね。忘れたと言ったけれど正確には少し違うね。きっと、僕も知らないんだ」
「は、はあ。そうなんです?」
曖昧模糊とした問答の傍ら、小判型の種が出来上がっていく。小夜子も途中から参戦するも、奏一郎の手際の良さには程遠い。
ほうれん草のお浸し、南瓜のサラダに漬物。今日も野菜たっぷりのヘルシーなラインナップ、まるで精進料理だ。卓袱台の雰囲気ががらりと変わったのは、そこにハンバーグが加わってからだ。
「それじゃ、いただきます」
「いただきます! 美味しそうです~」
両手を合わせて、早速ハンバーグに手を伸ばす。箸で割ってみると、中まで本当に火が通っているのかと疑ってしまうほど。ほろりとその身は解れていった。ちょこんと乗った大根おろしの香りが鼻腔をくすぐる。口に含んだ瞬間、小夜子は思わず声を出しそうになってしまう。ぐっと我慢して、咀嚼すること数十回。ようやく小夜子は心からの言葉を口にした。
「……今までに食べたハンバーグの中でも一、二位を争うくらい美味しいです……!」
「そうかそうか、それはよかった」
初めて作るハンバーグというのが信じられない。驚きに目を見開く小夜子に対して、奏一郎はのほほんとした笑みを浮かべている。
「本当は、ケーキも用意したかったんだけれどね」
白米をぱくり、口に含んだ奏一郎。小夜子はおとなしく言葉の続きを待つ。やがて上下する喉仏。
「今朝、静音ちゃんが心屋を訪ねてきて。『ケーキは私たちで作りましたから用意しないでいいですからね~』って念押しされたんだ」
「わ、わざわざここまで来てくれたんですか!」
「電話が無いから……とはいえ。すごい子だな、静音ちゃんは」
「ほんとですね、今朝なんて時間も無かったでしょうに。……わざわざ来てくれたんだ」
教室で、そして別れ際にも口にした感謝の気持ちがぶり返す。どうして、どうして自分はこんなにも周囲に恵まれているのだろうかと思ってしまう。
「ケーキ、すごく美味しかったんですよ! 今回は芽衣ちゃんと二人で作ってくれたらしいんですけど、本当に静音ちゃんってお菓子作りが上手で。将来はパティシエ……じゃなかった、職人さんとかになればいいのになって思うくらい」
「前に貰ったガトーショコラ? も美味しかったからなぁ」
「ですよね! 私もあんな風に、たくさんお菓子が作れたらなぁって思っちゃいます」
もし、作れたら。オーブンが無いので、心屋でケーキ作りなんて出来ようはずもないが。仮にだ。もし自分がケーキを作ったとしたなら、彼は食べてくれるだろうかと。喜んでくれるだろうかと。都合の良い妄想を頭の中で繰り広げるも、ふっとこぼされる奏一郎の笑みがそれを打ち消した。
「うーん、さよの場合はお菓子よりも先にお料理を覚えた方が良いかもしれないね。もちろん、そっちの方を覚えたいなら優先してどうぞ?」
「い、いえ! 引き続きご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします……! いつもたくさん教えていただいて、私は嬉しいですから……!」
奏一郎に料理を教えてもらってからしばらく経つ。大きな失敗こそ少なくなってはきたものの、彼の味には遠く及ばない。けれど、彼と台所に立つ度に、料理の腕が鍛えられているのもまた事実。下宿人のオーナーと下宿生、というより。これではまるで料理教室の先生と生徒だ。
「……けれど、それだけじゃ物足りないよね?」
「え?」
まっすぐな碧眼が、胸を打つ。
「店番に、家事に、お料理修業。……いつもがんばっているさよに、『ぷれぜんと』をあげたいなと思ってね」
にこり。細められた眼に、目を丸くした己の顔が映った。




