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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第五章:こわすひと ―長月― 其の四

* * *


大きな雨粒はやがて霧雨に切り替わり、ウィンドウをくまなく濡らし始めた。社内に充満する湿気が癪に障るのか、膝を激しく上下させる。もしかしたら、先の奏一郎の最後の発言に苛立ちを覚えているのかもしれないが。


「まったく……全て予定が狂った。橘のやつ……邪魔しやがって」

 舌打ちをしつつ、佐々木は後部座席でぶつぶつと独りごちていた。運転席のツナギの男性は、その怒りの矛先が自分に向かってきやしないかとびくびくと怯えた腕でハンドルを握る。

 そんな険悪なムードが漂う車内とは対照的に、前方の車道を行くショベルカーの中では、桐谷の鼻歌が流れていた。決して表情には出さないが桐谷は今、とてつもなくご機嫌なのだった。


 ――……きょーや……元気そうでよかった……。


 雨の中、視界は悪くても信号が見えないほどではない。赤信号が目に入り、桐谷はゆっくりとブレーキをかける。しかし――。

「……ありゃ……?」

 ブレーキが効かない。それどころか、むしろ加速していく。ハンドルを捌いても、まるで一つの意志が働いているみたいに、まっすぐ、まっすぐ進んでいく――。

 ――故障? ……壊れた?


 不審な動きをするショベルカーの様子に、たちまち佐々木たちも気付く。

「……おい、あいつ……。なんで、あんなに速く……?」


 ショベルカーは赤信号を無視し、目の前の白い建物をめがけてまっすぐに進んでいく。

 目を見開いた佐々木は、急に身を乗り出して叫んだ。

「やめろ……止まれッ! 桐――!」


 佐々木の声は、桐谷には、ショベルカーには届かなかった。

 鳴り響く幾重ものクラクションと、岩が崩れたような轟音がただ、辺りに鳴り響くばかりであった。


* * *


「癒されるなあ」

 あの雨の日から四日経った、土曜日の昼間のこと。太陽が燦々としながらも雲が広く厚く広がって、大変過ごしやすい日和である。

 店先の段ボール箱の中で、あんずは四匹の子猫たちに乳を与えていた。奏一郎はずっと、段ボール箱の前にチェアを置いて、その様子を見続けている。恐らく、優に一時間は経過しているはずだ。


 しかし小夜子はそんなことを一切気にせず、かぶりつくように新聞に注目していた。

「……『ブレーキの故障したショベルカーが、県知事の佐々木 上松(五十二)の事務所に衝突』ですって、奏一郎さん」

 小夜子の声に、彼も相槌を打つ。

「ふーん?」

 いかにも興味無さげなのは、本当に興味が無いからだろう。


 それでも小夜子は続ける。

「『衝突の拍子に破壊された金庫の中からは、横領などの証拠が多数発見された。一部の証拠がインターネット上に公開され、波紋を呼んでいる。佐々木氏は事実上、失脚したと言える。』……ですって。続き、読みましょうか?」

 奏一郎はゆっくり首を横に振る。

「特に興味は無いかな。とりあえず今は、目の前の猫だ」

「……そ、そうですか。……あの、おかしくないですか?」

「ん、なにが?」

 少し心臓をどきどきさせながら、チェアを引きずって奏一郎の隣に腰掛けた。

「このショベルカーって……きっと、ここを壊そうとしたものですよね? それが、あの日のあの後に、この人の事務所に突っ込むなんて……偶然にしては都合が良すぎませんか?」

 新聞の一面にでかでかと載る、佐々木の写真を指す。その表情に余裕などもちろん無く、いかにも苦々しげ。写真越しに「無念」と言う声が聞こえてきそうだ。


 あんずの首元を撫でながら、奏一郎は笑った。

「そうか? 勧善懲悪、なんて言葉もある。日頃の行いが祟ったんだろう」


 小夜子は新聞を畳むも、引き下がらない。奏一郎に体を向け、まっすぐに彼の目を見る。

「奏一郎さん。……私の言いたいこと、わかりませんか?」

「んー、わからないなあ」

 すっとぼけている。小夜子は直感でそう感じた。


 この新聞の記事は、彼女を一つの結論に到達させた。


 この人は、やはり――人間ではない、と。


 そう確信してしまった今、彼の正体が気になって仕方ない。今日こそは暴きたい。前ははぐらかされたが、もうその手には乗らない。


「奏一郎さん、私はですね。彼を『祟った』のは奏……」



 今日こそは暴きたいと。そう、小夜子は思った。けれど、その刹那。


 白い髪が小さく揺れたのは、風のせいなどではなかった。奏一郎が小首を傾げ、穏やかな視線を小夜子に向けたからだ。

 そのままそっと柔らかく口角を上げて微笑んだかと思えば――人差し指を己の唇にそっと押し当て。

 碧い瞳を優しく細めると、その眼差(まなざ)しで彼は囁く。


 言葉なしに、囁く。


 どくん、と。聞き覚えのない心臓の高鳴りに、小夜子はなにも言えなくなってしまった。


 彼の深い色の瞳に見つめられると、金縛りのようなものが起きてしまうのだ。ましてや、そんなに柔和な、それでいて妖艶な笑みを浮かべられては――全身の体温が上がって、口を開くことすらままならなくなるではないか。


「……ず……ずるい。ずるいですよ、奏一郎さん!」

「へ? なにが?」

「え、笑顔ではぐらかすのは……ずるいです! いつもいつもそうです!」

「はは……悪い、悪い。あ、そうだ、さよ」


 奏一郎が段ボール箱に視線を落とす。

「この子達、誰かに飼ってもらえないだろうか?」

「え?」

「僕は友人がいないからな。さよの友人……いや、友人じゃなくてもいい、貰い手を一緒に捜してほしいんだが……ダメか?」

 彼はまたも捨て犬のような目でこちらを見る。目が合った瞬間、心臓を一瞬揺らしてしまうほどの幼気な目で。

「は、はい。任せてください!」


 ――……また、はぐらかされた、ような……。


「……こんにちは」

 二人が顔を上げると、そこには橘がいた。土曜日だというのに、今日も彼はスーツを着用している。

「あ、こんにちは。橘さん」

「やあ、たちのきくん。どうしたんだ? あ、何度も言うが、僕はここを離れる気は無いぞ?」

「悪趣味な冗談はやめろ……」

 少々呆れ顔の彼が、左手の紙袋を差し出す。

「着物を返しに来たのと……あとはお詫びというか……礼だ」

 和菓子を持参してきたのか、紙袋からは甘い匂いが立ち込める。

「お茶を淹れてこよう。さ、上がってくれ。……実を言うと、礼を言いたいのはこちらの方なんだがな。君のおかげで、猫たちも健康そのものだ」


 精一杯、生にしがみつく子猫たち。そのなんとも微笑ましい姿に、橘の硬い表情が一瞬緩んだのを、小夜子は見逃さなかった。


 ――この人、すんごい猫好きだ……。


 眼鏡の位置を直し、こほん、と咳払いをして。途端、真剣な表情を奏一郎のいる台所に向けた。

「……一つ、訊いてもいいか?」

「ああ、いいぞ。今のも既に質問だったしな」

 奏一郎の冗談に、珍しく橘はつっこまない。

「……お前は何故、ここを離れることをあんなに拒んだ? あの男……随分な大金を積んだらしいじゃないか」


 小夜子は目を丸くする。と同時に、もはや既に力を失った“あの男”に、さらなる侮蔑の念を抱いてしまう。

 ――……そんなことしてたんだ……あの人。


 しかし、小夜子も疑問ではあった。こんな辺鄙な場所に彼が固執するのは、一体何故なのだろうかと――。


 湯飲みを乗せたお盆を手に、ゆっくりとこちらに帰ってくる彼。


「自分の生まれた瞬間を、君達は覚えているか?」


 彼の唐突な質問とその内容に、二人はぽかんとした。


「僕はね、覚えているよ。まずね、空。目を開けると、乾いた群青色の空が目に入って……とても綺麗で、眩しかった」


 突拍子の無い、現実味も無い発言。そうであるはずなのに、二人は取り憑かれたように、まるで、魅せられるかのように彼の言葉に耳を傾けていた。


「その時にね、思ったんだ。ああ、僕は、ここを離れるわけにはいかないってね。僕は頑固だからね、一度決めたら貫き通す。ここに居続けるためなら、どんな犠牲も厭わない。……ここだけは、絶対に誰にも渡さない。……渡すわけにはいかない」


 怪しく、冷たい笑み。首筋を何かが通っていったような、そんな寒気を覚えた。恐らくそれは橘も同じようで、口を噤んでいる。


「……で、なんでそんなことを?」

 奏一郎がいつもの柔らかな表情に戻って安堵したのだろうか、橘はふう、と息を吐く。

「いや、少し気になっただけだ」

「そう?」

「……まあ、俺がここに来る理由はもう無いから、安心してくれ」

「そうか、寂しくなるなぁ……」


 二人の表情とやり取りを見て、小夜子は目をぱちくりさせた。


「え、お二人はもう、お友達じゃないんですか?」

「え?」

 素っ頓狂な声を出したのは橘だけだったが、小夜子の発言に目を丸くしたのは奏一郎も同じだ。


「だって、けっこうお話してますし、橘さんは家具の片付けも手伝ってくれましたし、お互いに敬語も使ってないみたいですし。……私は、もう二人は友達だと思っていたんですが……あ、あれ? 違い……ました?」

 言い終わりに近づくにつれ、小夜子は小さく、赤くなっていった。そして彼女のこの発言で、いつの間にか敬語を外して話していた自分に、橘は初めて気付いたのである。


「『友達』かあ。……うーん、どうなんだろうな……『友達』、『友達』……」

 ひたすら単語を復唱する奏一郎を見て、橘は小さく声を出す。

「……別に、俺は構わないが」

 すると、一気に。ぱあっと、奏一郎の瞳が輝いた。


「……『友達』かあ……。そうか、『友達』かあ……」


 ――……あれ? 奏一郎さんが……嬉しがってる?


 堪えきれずに純粋な笑みをこぼす奏一郎は、まるで子どもみたいだ。


「これから、よろしくな」

 笑顔で差し出された手に、躊躇いがちにも橘は応じた。

「あ……君の新しいあだ名、考えなきゃなあ。もう『たちのきくん』じゃないしなあ。『たっちぃ』とかどうだ?」

「……呼んでみろ、二度とお前には会わない」

「あ、じゃあ呼ばない」


 ――……いい友達に、なれる……のかな?


 小夜子はとりあえず、奏一郎の“初めて”らしい友情が、できるだけ永く続くことを祈った。


* * *


 橘は仕事を残してきたとかで、茶を飲むとすぐに心屋を後にした。二人はそんな彼の後姿を、見えなくなるまで見送る。


 彼の背筋は、ぴんと伸びていた。いつぞやの公園で見た彼と、同一人物とは思えないほどだ。


「……最近、いいことが続くなあ」

 のんびりとした調子で、奏一郎が呟く。こんなにも太陽が眩しい時間に、彼を日の下で見るのは初めてな気がする。雪のような白肌が、眩しいくらいに目に焼きついた。


「いいこと、ですか?」

「ああ。まず、さよがここに来たことだろ。それに、僕に初めての友達ができたことだろ」

 指を折って数える彼は本当に楽しそうで、嬉しそうだ。


「……そして、さよがここを『自分の家』と言ってくれたのが、なにより嬉しい。誰かと一緒に暮らした経験が無いからなあ、僕は」


 春の空に浮かぶ雲のようにゆったりとしていて、だけど幽愁漂う笑みに、釘付けになってしまう。


 ――……どういう意味? 『誰かと一緒に暮らしたことない』って……。


 言葉の意味を考えているうちに、奏一郎は小夜子の方に向き直る。碧く細められた目は、悪戯っぽく輝いていた。


「ねえ、さよ。『ただいま』って言って?」

「え、ええ? な、何でですか?」

 今、気付いた。彼は行動も言動も唐突なのだ。予測もつかない分、余計に驚いてしまう。

「一回もさよから言われたこと無いんだよなぁ。なんだかんだで、すれ違うことが多かったしな」

「いや、だからって……」

「いいから、言って?」

 そして、また一つ気付いた。彼は実は、柔らかい物腰のようでいて強引な性格のようだ。でも、なかなか断りきれないから不思議だ。


「……た、ただいま、です」

 改めて挨拶を交わすというのが気恥ずかしい。躊躇いながらも、小夜子はまっすぐに彼の目を見つめて言った。


「……うん、あのな、さよ」

「はい?」

「また、嬉しいことが一つ増えた」

 そう言って、陰りのない笑顔を見せた。

〈第五章:こわすひと〉 終


次章は第六章 きえるもの


季節はまだ夏、九月の中旬のこと。


☆ここまで読んでくださり、ありがとうございます

☆またひとつ。物語の、一つの区切りとなりました

☆面白いと感じていただけたなら、↓で評価していただけると嬉しいです

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