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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十五章:なつくもの ―弥生・上旬― 其の弐十弐

* * *


 たった一日、たった一日の出来事だった。

 それが信じられないくらい、とても密度の濃い一日だったなぁと小夜子は思う。

 こんな風に思うのは決まって就寝前、入浴を終えた後だ。奏一郎は既に休んでいるのだろう、いつも通り一階の電気は消されていたのでゆっくりと階段を上る。一段一段、踏みしめるように。


 自室に戻ると、すぐさま携帯電話を開く。明日は静音の再試験の最終日だ。天井を背景に激励のメールを送る、そうすると数分も建てば感謝の言葉が返ってくる。それだけ、たったそれだけのことがこんなにも目頭を熱くさせた。

 反面、自分のしたことがお節介だったかと、余計なことだっただろうかと自問自答してしまうのは悪い癖なのだろうか。それを決めるのもきっと自分ではなく静音なのだろうけれど。彼女に感謝こそされたけれども。ほとんど考えなしに行動したことというのは、たいてい後になって悔やむものなのかもしれない。


 すると、カリカリ、カリカリ、と。聞き慣れない音が耳を掠める。何かを引っ掻くような音の在処を探るべく、小夜子はきょろきょろと自室を見渡した。徐に扉を開けてみると、音の正体にかっと目を見開いてしまう。

「フチタロー、階段上ってきたの?」

 返事のつもりなのか、ニャァと甘く鳴いた斑猫。今まで階段の中腹まで上ってきたことはあったが、ついに二階にまで辿り着けるようになったらしい。腕に抱えてみれば、心なしか満足げに見える。

「もう、ダメでしょ。ねんねの時間だよー?」

 台詞の意味するところとは裏腹に、小夜子はにっこりと笑みを浮かべていた。自分に会いたくてがんばってここまで来てくれたのだと思うと、叱る気になんて到底なれない。


 甘えてくる子猫を宥めつつ階段をゆっくり下がっていくと、大きな光る二つの眼が暗闇の中、小夜子を見つめていた。あんずだ。どうやら彼女はフチタローのことを迎えに来たらしい。灯りの無い中、小夜子を居間へと先導してくれる。


 小さなケージには、丸まった子猫たちが窮屈そうに収まっていた。フチタローをそこに導くもいやいや、とケージに入ろうとはしない。さすがに彼らも大きくなった、ということだろう。


「……春の嵐が過ぎ去ったようだね」

 ぼそり、小さな声。ぱっと振り返ると、閉じられた襖を靄がかった月明かりが照らしている。紛れもなく、それは奏一郎の声で。小夜子に向けて声をかけたのでないとすれば、きっとそれは独り言か、はたまた自分大好きな水筒に宛てたものである。


 気になって、掌ほどの隙間を作り覗いてみると、縁側に腰かける彼の姿がそこにはあった。今夜は月が明るい。辺りに街灯の無いせいか、夜空のスポットライトは神々しく白髪を輝かせていた。時折風にふわふわと揺れるそれに、「風邪をひいちゃいますよ」と声をかけたくなる。ここ最近の奏一郎が、物憂げに夜の風景をやたらと見つめているものだから、余計に。けれどそうさせてくれないのは、まあまあの予想通り、銀色の水筒である。

「春の嵐、ねぇ。俺様には、『ただの春一番』だったもんを嵐に変えちまった奴がいたように見えたが」

「ふふ、そうかい?」

 奏一郎が愉快げに相槌を打つ。後ろ姿だけでも微笑んでいるのだろうことは小夜子には読めた。


「まあ、遅かれ早かれ……だったろうよ。嵐ってのは一年中、どの季節にも起こるもんだからな」

「粋なことを言うね、とーすいくんは」

「まぁな、俺様だからな!」

 得意気に無い胸を張る銀色の水筒。とーすいが喋り、そして動いているの──見慣れてはいるが落ち着いて考えるとかなり奇異な現象──を、久々に小夜子は目にした気がした。


「……けれどね、色々と学ぶことはあったんだ、彼らからは。誰かと幸せになるにはきっと……『この人となら幸せになれる』じゃなくて。『幸せになるのなら、この人とが良い』って。そういう心が何よりも、きっと大切なのだろうから」


 襖の隙間を、易々とフチタローが通り抜けていく。小さな声に奏一郎は振り返ると、一時とーすいとの会話を中断し、

「フチタロー。眠れなかったかい?」

 小夜子しか呼ぶことのなかった、その名を呼んだ。


「……奏一郎さん、失礼します」

「どうぞ」

 小夜子の声にも登場にも、何の驚きを見せない。小夜子は遠慮がちに足を踏み入れると、いつもより距離を置いて畳に腰を下ろした。こんな静かな夜は、心臓の音が響くような気がしてしまって。


 フチタローは奏一郎に撫でられる度に目を細め、ついにはその柔らかな腹を見せた。気持ち良さそうにしていたはずが、けれどもすぐさま立ち上がり(きびす)を返し、再び小夜子の元へ舞い戻る。

「フチタローは、さよにとても懐いているね」

「えへへ、本当ですね」

「まだまだ眠ってくれそうもないし、しばらくここであやしていてくれないか?」

「はい」

 フチタローを遊び疲れさせるべく、猫じゃらしに扮したおもちゃで体力を消耗させていった。本能に従い短い手足をぱたぱたさせる様は、見ていて癒されるものがある。今日一日の出来事を、一瞬でも忘れさせてくれるほどの。やがて狙い通り、動きの鈍くなった彼。腕の中、眠たげに薄い瞬きを繰り返すその姿に、小夜子の頬もふわりと綻ぶ。


「ねぇ、さよ。その子にどうして『フチタロー』って名付けたの?」

 突然の問いに、小夜子は固まってしまう。だって、それはもう以前にも説明したじゃないかと思って。察してか、口を開く奏一郎。

「斑模様があるから、と言っていたけれどね。なんとなく、それだけじゃないような気がしてね」


 小夜子は悔しさから、笑みを浮かばずにはいられなかった。相変わらず、なんて鋭いのだろうと思って。きっと誤魔化しても意味がない。そんなことが彼に通用するはずもない。観念したように、諦めたように大人しく口を開く。

「あの、『(えん)』って言葉があるじゃないですか」

「うん」

「『(えん)』は『ふち』とも読めるので……いずれこの子も誰かの元で幸せになれますように。良いご縁が巡ってきますようにって。そう思って……あ、『タロー』はなんというかその、男の子っぽいかなと思いまして……っ」

 一息に言い終わって、耳がほんのり熱く感じる。我ながら安直だったなと。もっと捻るべきだったのではないかと。笑われてしまうのではないかと。けれど奏一郎はふむ、と得心がいったとばかりに頷くのだった。


「なるほどね、そうだよな。やっぱり名前っていうのは、そういうものだよな。うんうん、参考になったぞ」

 一人だけ納得したようにそんなことを言い放ったかと思いきや、それから後はまたしても黙りこくってしまうものだから小夜子は面白くない。が、責められない。またしても彼は夜をその目に捕らえて離さなくなってしまったから。声をかけてもきっと、それこそ空返事しか返ってこないのだろうから。

 昼間の空色の瞳を闇色に染め上げて、星を瞬かせ。雲のようなふわふわの白髪を月色に透けさせて。彼は不思議と、夜が似合った。夜が彼を惹き付けているように見えて、彼が夜を惹き付けているようにも小夜子には見える。


 それはともかくとして小夜子はいよいよ面白くない。一緒にいる時くらい、こちらを向いていてほしい。ほんの少しくらい、自分に興味を持ってほしい。要するに──構ってほしいのだ。ストレートにそんなことを言っても、笑われるだけだろうことはわかっている。ふと、そういえば彼はこんなことを言っていたっけ、と思い出す。

「奏一郎さん……たしか言ってましたよね? 『名前を呼ぶのは相手を認めているということだ』って」

「言ったねぇ」

 こちらを振り返ることのない奏一郎。しかし、

「そのことと今、奏一郎さんが空を見ていることは何か関係があるんですか?」

 この問いにふと、瞬き一つ。濃い群青色の瞳に、まっすぐ己の姿が映る。

「うーん……惜しい、かな。でも僕のことを、さよがだんだんとわかってくれているようで嬉しいよ」

 この高揚感をどう言い表したら良いのか。口角にそれが滲んでしまいそうで、咄嗟に視線を逸らしたのは小夜子の方だった。今夜の月は、本当に明るい。朧月のはずなのに、焦点から逸れてもなお彼の姿は、余裕の笑みは、なぜか鮮明に映るのだ。


「名前を呼ぶというのはね、大袈裟に言ってしまえば愛情だよ。誰からも呼ばれなければとても寂しいし、誰かから呼ばれればそれは、とても嬉しくさせるものだから」

 それが愛する人からならば、なおのことね。


 ついでのようにそう言って、奏一郎は目を細める。白い睫毛に縁取られた眼に、己の姿はきゅっと押し込められ……やがて、見えなくなった。


 ──静音ちゃんも……桐谷先輩から名前を呼ばれなくなって辛いって。でも、たくさん名前を呼んでくれてからは嬉しくなったって、そう言ってた。


 小夜子の頭の中を、恐ろしい想像が(よぎ)る。もし、二度と奏一郎から名前を呼ばれなくなったら……と。それはきっと、言い様のない寂莫(せきばく)をもたらすのだろうと。


「……私もきっと、呼ばれなくなったら辛いです……」

「おや。そんな()い相手でも出来たのかな、さよ」

「い、いえ。今のところそんなお相手は……!」

 ぶんぶんと首を横に振り、大袈裟なまでに否定してしまう。はっとして腕の中を見るも、フチタローは安定した寝息を立てていた。あんずもまた、奏一郎の傍らで腹を見せて実にリラックスしている。


「でもね、さよのことを名前で呼びたい人はいるかもしれないよ?」

「え……」

「試してみる? ……おいで?」

 ひらひらと手招きをされて。奏一郎の言に乗せられるまま、縁側に腰かける。右肩より数センチの距離、すぐ傍に奏一郎がいる。先ほどまで一畳分も離れていたのに今はずっと、ずっと近い。こんな静かな夜は息遣いが目立つ。心臓の高鳴りが普段の呼吸を忘れさせる。加えて、あろうことか彼は唇を近付けるのだ。瑞々しいほんのり冷たい髪を掻き分け、そして熱を放つ耳元へ。


 ……予想外の台詞を、囁くのだった。


 そっと離れていく彼の息遣い。それにつられて、小夜子の鼓動も落ち着きを取り戻す。

「え……えっと?」

 今しがた彼から囁かれたのは、小夜子にとっては「なぜ、今そんなことを?」と思わざるを得ない内容だったのだ。頭上にクエスチョンマークをいくつも飛ばしているのはそのせいだ。一方の奏一郎は、悪戯っぽく微笑むだけ。

「次に会った時にでもぜひやってみてね!」

 その笑みのなんときらきらしいことか。夜空の星々にも負けない勢いだ。


「わ、わかりました。やってみますね……!」

 勢いに圧され、何が何だかわからないままに小夜子は了承してしまった。なんだか奏一郎がとてもワクワクしているようなので。彼の嬉しいと思うことなら、何でもやってみたい。


「ところで奏一郎さん。『あんず』は、どういう意味を込めて名付けたんですか?」

 単なる話題の一つとして、奏一郎の左手置き場となっている成猫を指す。

 名前を呼ぶのが愛情ということなら、きっと名付けは最初の愛情なのだろうから。奏一郎がどんな想いでその名を彼女に付けたのか知りたかったのだ。


 ぱちくり、幾度の瞬きを繰り返して。

「いや、僕はあんずの名付け親じゃないぞ」

「え、そうなんですか?」

 こくこく、と奏一郎は首肯する。ならば、と小夜子は思わず前のめりになってしまう。

「なんだかとっても意外です。でも……それじゃ、あんずの名付け親って誰なんですか?」

「さぁ……誰だったかなぁ?」

 あんずの腹を一撫で、もう一撫で。長い前髪は、その奥にあるはずの碧眼を上手に隠していた。

 (あらわ)になっていたのは、口角の上がった唇だけ──。



「忘れちゃったよ」



* * *


 翌々日の月曜日。教室に到着するやいなや、何やら小夜子の机の近くに人だかりができていた。何かあったのだろうか、と近付いてみれば、人だかりの中心にいるのは静音だということがわかる。刹那、背中に走る冷や汗。


「し……静音ちゃん、おはよう!」

 大声を出すと、人だかりの隙間からひょこり、静音が顔を出してきた。

「おっはよー、小夜子!」

 よく通る声に光る笑顔。小夜子はほっと胸を撫で下ろす。

「ど、どうしたの、こんなに皆して集まって」

「聞いてよ小夜子! 間違えた、見てこれっ!」

 視界いっぱいに埋め尽くされたのは、何枚もの白い──否、所々に赤字で丸の書いてある──試験の用紙。そして右上に鎮座する数字は、

「百……点……!?」

「そーなの! 百、点、満、点! 最終日の再試験ね、三教科全部満点だったの~!」

「ええ!?」

 これにはさすがに声をひっくり返してしまった。失礼ながら、静音は勉強ができる方では決してない。平均点を越えることすらままならないことが多いのだから、この結果は奇跡と言っても過言ではないだろう。


「だから私ね! 皆と……小夜子と、ちゃんと進級できるんだよっ!」

 力強く、力強く抱き締められて、首が少しだけ苦しかったけれど。辛い苦しみとは程遠い。自然と小夜子の頬からも笑みがこぼれる。ああ、一緒に三年生になれるのだと。


「よかった……よかったよ~っ」

 涙が絞り出されそうになったところで、静音の拘束が緩む。首根っこを掴んで小夜子から引き剥がしてくれたのは芽衣だ。

「原、嬉しいのはわかるけど元気すぎだから。落ち着いて」

「出たな、小夜子の騎士(ナイト)様! ヒュ~!」

「その言い方も()めて」


 朝礼の時間も迫る中、静音の周囲から人の流れが止む気配は無い。皆と話す静音の表情にも、曇りは見られない。


「……私ね、時々。もしかして原ってものすごい天才なんじゃないかって思うことがあるよ」

 ぼそり、芽衣が呟く。呆れを前面に、喜びを隠し味に。

「えへへ、そうだね。きっとそうなのかも。一夜漬けでああはなれないもんね!」

「……頭の中、スッキリできたんだろうね。萩尾さんのおかげだよ、きっと」

「そんなことないよ! きっと……」


 小夜子は、ぱっと目を見開いた。そうだった、忘れるところだった、と思って。


(あいだ)に入ってくれて。仲直りのきっかけを、くれたから。だから今の私があって、静音ちゃんがあるんだって、思うよ。……助けてくれてありがとう、芽衣ちゃん」


 ……ただ、名前を呼んだだけ。これまでとは異なる呼び名を、口にしただけ。


 それなのに、ただそれだけのことのはずなのに。琥珀の目はみるみるうちに驚きに見開かれ、白磁の肌は一気に生気を昂らせ……否、茹で蛸のように赤く燃え上がっている。


「な……なに、急に、名前……!?」

「うんとね、いつも『楠木さん』で名字だったからね」

「う、うん……っ」

「これからはちゃんと、『芽衣ちゃん』って名前で呼んでみようって」

「そっか。そう、なんだ……っ!」

 ああ、なんだか今までずっと、芽衣には悪いことをしてきたみたいだ。

 彼女のこれだけ嬉しそうに微笑むところを見たのは、小夜子は初めてのように感じた。そして、


「奏一郎さんに言われて」

「は?」


 ……これだけ笑顔と顔色とを急速に失った人を見たのも、初めてのように感じた。

なつくもの。懐くもの。

懐かしいもの。名付くもの。


〈第十五章:なつくもの〉 終


☆ここまで読んでくださり、ありがとうございます

☆物語の、一つの区切りとなりました

☆面白いと感じていただけたなら、↓で評価していただけると嬉しいです

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