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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十五章:なつくもの ―弥生・上旬― 其の弐十壱

 俯いた彼の表情が、歪んでいるのが見える。掌の隙間に見える虚ろな眼が、もはや己を映していないことがわかる。

 こんなにも狼狽する姿を見るのは初めてで。自分よりずっと背の高いはずの彼。マイペースで、のほほんとした雰囲気であるはずの兄。それが今では、まるで人馴れのしていない臆病な野良犬のようだった。


 不謹慎かもしれなかった。もしかしたらこの湧き上がる感情は、とてつもなく人道から逸れているかもしれなかった。誰からも共感されない気持ちかもしれなかった。戸惑いでもない、悲哀でもない。


 ――ああ、なんだ。お兄ちゃんは私のこと、ちゃんと想ってくれてたんだなぁ……。


 (よろこ)び、だ。


「お兄ちゃん……私は、さ。お兄ちゃんに奪われた物なんて何も無かったよ。いつも、与えられてばかりだったよ」

 静音自身、気が付かない。表情は溶けて、自然な笑みを作り出す。

「そりゃね、お父さんとも離れることになって習い事も無くなって。寂しい思いもしたかもしれないけど、でもね。私は、お兄ちゃんと離れるのが。離れなきゃいけないのが……それが、それが一番、寂しかったなぁ……!」

 笑みとは裏腹に。目尻からぼろり、ぼろりと玉の涙が溢れていく。止めどなく溢れるそれを受け止めたのは、静音の両手ではない。

 大きな掌が、静音の頬をそっと包む。


「静音」

 名を、呼ばれる。彼の声が震えているのはなぜか。そっと目線を上向ければ、深い褐色の瞳が濡れていた。静かに、静かに濡れていた。


「俺は……静音の気持ちに応えることはできないよ。この気持ちは、一生変わらないよ」

「……うん……」

 そんなことはわかってるよ、ずっと昔からわかってたよ、と。静音は小声で付け加えた。そうでなければ、胸がはち切れてしまいそうだ。


「でもね……こんな俺を好きになってくれて、ありがとうって。本当にありがとうって、思うよ」

「う、ん。うん……っ」

 吐く息が、吸う息が、苦しい。初恋の終わる瞬間が、もうすぐ訪れるのを悟って。


「もし……静音が将来、別の男を好きになって」

「うん」

「そいつがもし、静音のことを傷付けたら」

「うん……」

「いつでも言って。俺が殴りに行くから。……静音は男を見る目、無いから」

 冗談に聞こえても、たぶんこれは本当だ。彼はきっと殴りに来るだろう。来てくれるんだろう。

「あはは……っ! 何でよー!? 暴力反対……!」

 静音は笑いたかった。笑いたかったから、笑った。笑い飛ばしてしまえば涙も、悲しみも吹き飛ぶんじゃないか。……そんな妄想をして。


 けれど。


「……大事だからだよ。今までの静音も、今、目の前にいる静音も。これから先の静音も。俺にとってはずっと、大事だから。……大事に、したいから」


 もう、そんな台詞を言われてしまっては駄目だ。塞き止め始めていたダムが決壊する。もうこれ以上、情けない泣き顔なんて見られたくないのに。目鼻が熱を帯びる。鏡なんて見なくてもわかる、きっと今、自分の鼻は真っ赤に染まって、両目は早くも腫れを訴えているのだと。

 対する桐谷は頬を一筋光らせるだけだ。鼻は何色に染まることもなく、まるで人形が雨に濡れたみたいに。静音は知らなかった。こんな泣き方があるのだということを。彼がこんな泣き方をすることを。


「お、お兄ちゃんって……こんな静かに泣くんだね!」

 自分とは大違いだ、と。静音は涙の足跡をそっと撫でる。桐谷はされるがまま、だ。しかしお返しとばかりに今度は頭を撫でられる。

「ずるいよー……! 一人だけ、泣くときも涼しい顔しちゃうなんてさぁ……!」

 ひとしきり頭を撫でられ。掌の温もりににこり、と。静音は涙まじりに、笑った。


「お兄ちゃん。私達って……私達って本当に、本当に似てないね、お兄ちゃん……」


 笑いたかったから、笑った。



* * *



 車中で待つことも出来ただろう。施錠していないところを考えても、橘もそう想定していたことだろう。風は冷たい空気を巻き込み体中にまとわりつく。かれこれ一時間は経ったろうか。小夜子は未だに車の前で、祈りを捧げていた。

 一度試しに後部座席に座ってみたものの、暖かいはずの車内がなぜか落ち着かなくてすぐさま飛び出してしまった。一秒でも早く、静音を迎えてあげたい。その想いだけが、小夜子を地面に縫い付ける。


 風が通り抜ける度、鳥肌を立たさずにはいられない。しかし小夜子は唇をきりりと結んで、ため息一つ漏らすことはなかった。慣れというやつだろうか、寒さに体を丸めることもなかった。瞼を閉じて、あとはひたすらに祈るだけ。


 固く閉じた瞼をふっと和らげると、小さな影がゆっくり、ゆっくりと大きくなってくるのが見えた。華奢な肩、見慣れたコートのピンク色。寒さゆえか、朱に染まった頬の色……静音だ。

 重い荷物を引きずっているかのような、そんな表情だ。……実際、瞼はかなり重そうだ。


「お帰りなさい」

 そう言って出迎えてやっと、静音は淡く微笑んだ。

「もしかして……ずっと待ってたの?」

 涙の跡を滲ませた声が、驚きに震えている。小夜子は首を横に振って、ありふれた嘘を吐いた。

「ううん、今出てきたとこ。そろそろ帰ってくるかなと思って」

 淡い微笑みがふっと和らいで、つい小夜子もその笑顔につられてしまった。ああ、やはり。静音には作り笑いは似合わない。

 きゅっと手を握ると、そのあまりの冷たさに後悔する。手袋も持ってくるべきだった、そして貸してあげるべきだったと。

 握り返してきた静音。悴んだのか、その指の動きはぎこちない。


「小夜子……私ね。終わらせてきたよ」

「うん」

「泣いちゃったけどね、ちゃんと好きって言えた。ちゃんとフラれてきた。でもね、名前呼んでくれたから。それは嬉しかったから。だからね、ちゃんと……終わらせてきたんだよ」

「……うん」


 ふわり、生暖かい風が吹く。


「だからね、もうね、終わっちゃった……」


 氷が溶けていくようだった。じんわり、ゆっくり。目尻にそれが溜まっていくのを見て。

「もう泣くの嫌だよ……! かっこ悪いよ……!」

 小さな子供のようなその嘆きを、耳に捉えて。小夜子は思わず抱き寄せた。震える体を。嘆きを。叫びを。


「格好悪くなんかないよ、静音ちゃん。がんばったね。がんばったんだね。ものすごくがんばった人はね、格好悪くなんてないんだよ。格好悪くなんて、なれないんだよ」

 本当に、心からの言葉だった。

「さ、小夜子にありがどうって……気持ち、伝えさせてくれてありがとうって、気持ちと。悲しい……苦しいって気持ちでごちゃごちゃで。スッキリしてるんだかしてないんだかもうわけわかんないよ――……!」

「いいよ、わけわかんなくてもいいんだよ。私はわかってるから……だから、大丈夫だからね、静音ちゃん」

 時々跳ねる背中を宥めながら、小夜子は子守歌のように相槌を打つ。肩が濡れたって構うものか。そんなことはどうでもいい。泣かせてあげたかった。


 生まれ落ちたばかりの赤ん坊のように。


* * *


 静音と別れ、その背中を見送ってから。桐谷はとぼとぼと歩を進めていた。見合い相手の女性――瀬能 桃――を待たせているのだから、なるべく急いだ方が良いのは明白だ。けれども、足が骨を抜かれてしまったみたいに言うことを聞かない。本当にここにあるのは自分の体なのかと疑ってしまうほどだ。


 惰性で歩き続けてしばらくのこと。一人、ベンチに腰かける橘の姿を視界に捉える。相手は既に桐谷の存在に気付いているらしく、視線をまっすぐに上向けていた。


「……桐谷」

 目の前に立ってみれば、ばつが悪いとでも言いたげな表情の彼。珍しいその表情に一瞬だけ目を奪われるも、桐谷はそっと隣に腰かけて、力の入らない足を休ませる。きっと同じような顔を学生時代に見せていたのは、自分の方なのだろうなと思いながら。


「言いたいことはわかってるからね……。謝らなくていいよ」

 目を見張る橘が口を開く前に、桐谷は手で制した。

「本当に良いって。怒ってないし、むしろお礼が言いたいくらいだから……」

 放っておけば土下座でもしかねない橘に、桐谷は薄い笑みを送る。そう、彼の心の内は本当に、憤りも怒りも悲しみも無いのだ。


「……きょーやは違うって。思い込みだって言ったけど、たぶんそうじゃない。あの二人の離婚した原因は俺だよ。少なくとも、数ある理由の中の大きな一つではあったよ」

 表情を変えることなく淡々とそう言ってのけるので、橘は口を挟むことができない。


「でもね……静音にとっては、そんなことはどうでもよくて。……俺と離れ離れになるのが、それが一番辛かったんだって」


 嬉しかったなぁ、と。掠れた声は紡ぐ。自嘲の笑みに、空しく重なる。


「守りたいって……思ってたのに、約束したのに。きっといつも、守られてるのは。救われてるのは、俺のほう……」

 兄なのに情けないや、と。己の体たらくに、言葉にもならない。しかし、声に出さずとも己を理解してくれる存在がいるということも、桐谷は忘れてはいない。それはきっと、忘れたくないからだ。


「……それじゃ。次こそはがんばらないとな」

 明瞭な声色が左肩を撫でる。元気付けようとしている、そんな言い方ではなかった。どちらかと言えば、まるで当たり前のことを口にしているよう。……本当にそう思って言ってくれているのが、わかる。

「まだまだこれから、だろ。二人とも」


 その時だ。どこかの誰かが似たような台詞を口にしていたな、と思って。そしてそれが誰だったかをふっと思い出して。桐谷はころん、と。転がるような笑みを見せた。


「……そうだね。まだまだ俺たち、若いんだし、ね」


 一つ、生暖かい風が吹く。掌に掴む暇もなく、するりとそれはどこかへ飛んでいってしまった。

 静音に連れ出された時のあの感触を、掌が思い出す。どうしてあの手を振り払うことができなかったのか――その答えを今、風が小さく囁いた気がした。


「……ところで、さ」


 けれど穏やかな風よりも、何よりも。注目して然るべき者が一人。

 

「……向こうから瀬能さんが必死の形相で走ってくるのは何で?」

「うん、あのな。すまないとは思っているんだけどな、誤解を解くのに付き合ってくれ……。もう既に二十分は闘った後なんだ……!」

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