第十五章:なつくもの ―弥生・上旬― 其の弐十
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歩を進めれば進めるほどに、背後の声が遠ざかる。先ほどから走りっぱなしだったせいか、息が上がるのも早い。静音の駆け足が失速するのに、そう時間はかからなかった。一方の桐谷は息一つ上げずに、実に飄々とした面持ちでいるが。
大丈夫、大丈夫だよと自身に言い聞かせるも、心の中は空洞で。反響するばかりで、その実は伴っていない。気がつけば歩幅の大きな彼の方が自分を引っ張ってくれていた。足音が耳を掠める中、続く沈黙。せいぜい歩き始めてほんの数分だろうに、何十分にも何時間にも感じられる。細かな砂利の重なる音が、今はありがたかった。きっと口を開くのは、二人の足音が止んだ時だから。
ふと、先に足を止めたのは前を行く桐谷だった。静音もそれに従う。振り返ることもせずに背中を見せるばかりの彼に、心臓が自己主張を強めていった。
傍らにある小さな池の、苔の色が眩しい。
「……どうやってここまで来たの」
唐突にして小さな問いは、心なしか冷たく響く。
「きょ、恭兄が、連れてきてくれた」
「……そっか、きょーやが」
まるで驚くでもなく、桐谷はそれだけで納得したようだった。ちらりと見えた横顔には、何の表情も灯されていない。怒りも、悲しみも、何も。
「あの……ごめんね、ほんとに! あの女にも悪いことしちゃったからさ、ほんと反省しなきゃ……!」
「どうして来ちゃったの」
遮るように、桐谷は再び訊ねてくる。
「どう……して、かぁ。はは……」
答えれば、矢継ぎ早に質問を重ねてくる。問うている割には、答えにさして興味など無いかのような。……まるで、自分の声を聞きたくなどないかのような。
けれど、さすがにこの反応は予想の範囲内だ。温かく迎え入れてくれるわけなど無いのだから。それでも自分で決めたのだ、ここに来ようと。小夜子に背中を押されたからではない。橘に連れてこられたからではない。そんなのはほんの、些細なきっかけでしかなかった。
「自分が傷付くだけだって、考えなかったの?」
「……考えたよ。出来の悪い頭で、だけどさ。これでも一生懸命、考えたよ」
自分で、決めたのだ。だからこれから先、どんな結果が待っていようと。きゅっと繋がれているこの手が、たとえ振り払われたとしても。誰も責められない。責めるつもりもない。
「お兄ちゃん、私ね」
口を開いた瞬間。唇が震えたのが、わかった。
「お兄ちゃんのこと、だいすきだよ」
ほんの少しも、振り返ってくれなくても。
「言うつもりは、無かったよ。ずっと、一生、心の中に閉じ込めておくつもりだったよ。だって……だって、さ」
風に揺れる路考茶の髪が、ふわふわとたなびく。それだけで、それすらも、心臓を揺らせる。
「お兄ちゃん、可哀想だから……っ」
声が上擦る。視界はぼやけて、彼の姿がじわり、歪んでいく。
その代わり、滲む世界に浮かぶのは――父と母。二人が、彼をぞんざいに扱ってきたこれまでの記憶。
会社の後継者としてでしか息子を見ない父に、共に食事を摂ることも会話すらもしない母。幼心にどうしてなのか、うっすらと疑問に思うことはあった。……今の静音には、その理由がわかる。今ならわかる、けれども。
「あんな……優しくないお父さんで。あんなに、温かくないお母さんで、本当にごめんねって。もうそれだけで充分、お兄ちゃん不幸なのにさ。それなのに……」
だから自分だけは、「普通」でありたかった。
兄にとって唯一の……「普通の家族」でありたかった。
「……妹は妹で、お兄ちゃんのことが好きだ、なんて。……変だよ。そんなの気持ち悪いもん、おかしいよ、お兄ちゃんが可哀想だよぉ……!」
ぼたり、ぼたりと音を立て。頬を流れ伝ったそれは、雪解けのように落ちていく。燃えるような熱を持ったそれを、冷たい苔が受け止めて。麗らかな日射しはきらきらと、眩しく反射させた。
桐谷は未だに振り返らない。どんな表情をしているのかわからない。彼の頭の中の自分は今、どのように映っているのだろう。
怖い、怖い、怖い。心臓は、叫ぶ。
握り締めた掌は、ゆっくりと解かれ。吹き抜ける冷たい風がことごとく体温を奪っていく。心臓とて例外ではない、急速に冷えを覚えていった。
――……ああ。やっぱり、嫌われちゃったかな。
孤独になった両の掌で涙を受け止めると、火傷でもしてしまうのではないかと思うほどに熱かった。
何も言ってくれない彼が視界の外で振り返ったのがわかる。静音はまだ、顔を上げることができない。
風こそ吹けども辺りは静かだ。桐谷の口が開かれるのを、気配で感じ取れてしまって――反射的に、瞼をぎゅっと閉じてしまう。もうこれ以上、涙がこぼれないようにと。
もし、祈ることがあるとすれば――、
「……一度も思ったことないよ、気持ち悪いなんて」
どうかそれが、優しい嘘ではありませんように。
「ほ、本当に……っ?」
信じたいのに、信じられない気持ちでいた。だって彼は、いつも結局は甘いから。疑念は晴れない。
「本当だよ。……俺は、幸せになってほしいって、思ってきたよ」
その声は、まるで久しぶりに振り絞られたかのような。そんな掠れた声だった。それでいて、
「ずっとそう、思ってきたよ」
穏やかな声、だった。
顔を上向けてみれば、いつもの無表情。何の感情も宿していない――けれど眼差しは、決して怒りではないその代わりに……悲しみの色を宿して。
「それなのにどうして、よりにもよって。一番幸せになれない俺を選んじゃうかな」
「わ……わかんないよ、そんなの! 気が付けばもう、物心ついた頃からそうだったんだから!」
「……男見る目無いんだね。驚いたな」
「う、うるさいなぁ、もう……っ」
でもね、と。彼は無表情にうっすら微笑みを重ねてみせた。妹である静音でもやっと判別できるくらいの、仄かな笑み。暗闇の中にポッと灯る、蝋燭の炎を思わせる。
「本当に男見る目、無いよ。俺はもう、静音の幸せを壊してるのに」
「……え?」
濡れる眼をきょとん、と丸くして。静音は彼の言葉を待つ。
「俺のせいだから。全部、俺のせい」
彼の言わんとしていることが何一つわからなくて、読めなくて。ただ、押し黙ることしかできない。ただ一つわかることがあるとすれば……彼の先程から浮かべている笑みが、自嘲から来ているということだけだ。
「小学生の時。習い事を止めさせられたのはどうしてか覚えてる?」
「お、お父さんと香澄ちゃんが離婚したから?」
「じゃあなんで香澄さんが『お母さん』って呼ばれたくないか知ってる?」
「そん、なの……。いつまでも若く見られたいからじゃないの?」
「じゃあ……! あの二人が離婚したのいつだったか覚えてる?」
目の前にいる彼は、いつもの桐谷ではなかった。普段の緩慢な喋り方を忘れてしまったのか、それともこれが本来の彼なのか。矢継ぎ早の質問に、静音の頭はくらくらしてしまう。
あの二人、というのは恐らく両親のことを指すのだろうことはわかる。いつ頃だったかを思い出すのに時間がかかったのはきっと、話の方向性が依然見えないからだ。
「わ、私が十歳の時」
「そうだよ。けど、正確には違う」
くしゃり、と音を立てて。桐谷は己の短い髪を乱暴に掴んだ。ただそれだけのことのはずなのに。静音にはまるでそれが……自傷行為のようにすら見えた。
「正確にはね、俺の成人式の翌日だよ」
きっとね、耐えられなかったんだよと。桐谷は小さく呟く。
「本当はきっと、もっと耐えるつもりだったんだろうと思う。せめて自分の娘が二十歳になるまではって。けど耐えられなかったんだ。どうしてもあともう十年が、耐えられなかったんだ」
誰が、なんて訊かずとも答えは明白だ。静音にはわかる、香澄のことだと。
「香澄さんが静音に『お母さん』って呼ばせないのはね、俺にそう呼ばせなかったから。俺にそう呼んでほしくなかったから。兄妹なのに統一させないのは変でしょ?」
香澄の表情が、浮かぶ。桐谷を見るときの、あの冷ややかな目。
「二人が離婚したのも、俺のせいだ。俺との生活に、俺がいる生活に香澄さんは耐えられなかった」
くしゃり、くしゃり。彼の髪が、指の形に変わっていく。
「俺がいなければよかった。最初からいなかったらよかったんだ。もしかしたら、ううん、きっと。そうすれば静音はきっと……ずっと、幸せだったはずなのに」
桐谷は思い返していた。静音と初めて会った、あの日のことを。脳裏に未だに強く焼き付いて離れない。「可哀想」になんてさせないと。守ってあげるからね、と。初めての握手を交わしたあの日を。
それがどうして、今日のたった今、この瞬間に繋がってしまったのだろう。
「家族を奪った。家を奪った。名字も、習い事の楽しみも。全部全部、俺が奪ったのに。俺が壊したのに」
それなのに、どうして。
「なんで、俺のことを好きだなんて言うんだ」
幸せになってほしいのに。「普通」の、幸せな恋をして。誰よりも、幸せになってほしいのに。どうしてよりにもよって、自分を選んだ?
「俺は今度は……静音から何を奪うの」




