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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十五章:なつくもの ―弥生・上旬― 其の弐十

* * *


 歩を進めれば進めるほどに、背後の声が遠ざかる。先ほどから走りっぱなしだったせいか、息が上がるのも早い。静音の駆け足が失速するのに、そう時間はかからなかった。一方の桐谷は息一つ上げずに、実に飄々とした面持ちでいるが。


 大丈夫、大丈夫だよと自身に言い聞かせるも、心の中は空洞で。反響するばかりで、その実は伴っていない。気がつけば歩幅の大きな彼の方が自分を引っ張ってくれていた。足音が耳を掠める中、続く沈黙。せいぜい歩き始めてほんの数分だろうに、何十分にも何時間にも感じられる。細かな砂利の重なる音が、今はありがたかった。きっと口を開くのは、二人の足音が止んだ時だから。


 ふと、先に足を止めたのは前を行く桐谷だった。静音もそれに従う。振り返ることもせずに背中を見せるばかりの彼に、心臓が自己主張を強めていった。

 傍らにある小さな池の、苔の色が眩しい。


「……どうやってここまで来たの」

 唐突にして小さな問いは、心なしか冷たく響く。

「きょ、恭兄(きょうにぃ)が、連れてきてくれた」

「……そっか、きょーやが」

 まるで驚くでもなく、桐谷はそれだけで納得したようだった。ちらりと見えた横顔には、何の表情も灯されていない。怒りも、悲しみも、何も。


「あの……ごめんね、ほんとに! あの(ひと)にも悪いことしちゃったからさ、ほんと反省しなきゃ……!」

「どうして来ちゃったの」

 遮るように、桐谷は再び(たず)ねてくる。

「どう……して、かぁ。はは……」


 答えれば、矢継ぎ早に質問を重ねてくる。問うている割には、答えにさして興味など無いかのような。……まるで、自分の声を聞きたくなどないかのような。


 けれど、さすがにこの反応は予想の範囲内だ。温かく迎え入れてくれるわけなど無いのだから。それでも自分で決めたのだ、ここに来ようと。小夜子に背中を押されたからではない。橘に連れてこられたからではない。そんなのはほんの、些細なきっかけでしかなかった。


「自分が傷付くだけだって、考えなかったの?」

「……考えたよ。出来の悪い頭で、だけどさ。これでも一生懸命、考えたよ」


 自分で、決めたのだ。だからこれから先、どんな結果が待っていようと。きゅっと繋がれているこの手が、たとえ振り払われたとしても。誰も責められない。責めるつもりもない。

「お兄ちゃん、私ね」

 口を開いた瞬間。唇が震えたのが、わかった。


「お兄ちゃんのこと、だいすきだよ」


 ほんの少しも、振り返ってくれなくても。


「言うつもりは、無かったよ。ずっと、一生、心の中に閉じ込めておくつもりだったよ。だって……だって、さ」


 風に揺れる路考茶の髪が、ふわふわとたなびく。それだけで、それすらも、心臓を揺らせる。


「お兄ちゃん、可哀想だから……っ」


 声が上擦(うわず)る。視界はぼやけて、彼の姿がじわり、歪んでいく。

 その代わり、滲む世界に浮かぶのは――父と母。二人が、彼をぞんざいに扱ってきたこれまでの記憶。

 会社の後継者としてでしか息子を見ない父に、共に食事を摂ることも会話すらもしない母。幼心にどうしてなのか、うっすらと疑問に思うことはあった。……今の静音には、その理由(わけ)がわかる。今ならわかる、けれども。


「あんな……優しくないお父さんで。あんなに、温かくないお母さんで、本当にごめんねって。もうそれだけで充分、お兄ちゃん不幸なのにさ。それなのに……」


 だから自分だけは、「普通」でありたかった。

 兄にとって唯一の……「普通の家族」でありたかった。


「……妹は妹で、お兄ちゃんのことが好きだ、なんて。……変だよ。そんなの気持ち悪いもん、おかしいよ、お兄ちゃんが可哀想だよぉ……!」


 ぼたり、ぼたりと音を立て。頬を流れ伝ったそれは、雪解けのように落ちていく。燃えるような熱を持ったそれを、冷たい苔が受け止めて。麗らかな日射しはきらきらと、眩しく反射させた。


 桐谷は未だに振り返らない。どんな表情をしているのかわからない。彼の頭の中の自分は今、どのように映っているのだろう。

 怖い、怖い、怖い。心臓は、叫ぶ。


 握り締めた掌は、ゆっくりと(ほど)かれ。吹き抜ける冷たい風がことごとく体温を奪っていく。心臓とて例外ではない、急速に冷えを覚えていった。


 ――……ああ。やっぱり、嫌われちゃったかな。


 孤独になった両の掌で涙を受け止めると、火傷でもしてしまうのではないかと思うほどに熱かった。

 何も言ってくれない彼が視界の外で振り返ったのがわかる。静音はまだ、顔を上げることができない。

 風こそ吹けども辺りは静かだ。桐谷の口が開かれるのを、気配で感じ取れてしまって――反射的に、瞼をぎゅっと閉じてしまう。もうこれ以上、涙がこぼれないようにと。


 もし、祈ることがあるとすれば――、

「……一度も思ったことないよ、気持ち悪いなんて」

 どうかそれが、優しい嘘ではありませんように。


「ほ、本当に……っ?」

 信じたいのに、信じられない気持ちでいた。だって彼は、いつも結局は甘いから。疑念は晴れない。

「本当だよ。……俺は、幸せになってほしいって、思ってきたよ」

 その声は、まるで久しぶりに振り絞られたかのような。そんな掠れた声だった。それでいて、

「ずっとそう、思ってきたよ」

 穏やかな声、だった。


 顔を上向けてみれば、いつもの無表情。何の感情も宿していない――けれど眼差しは、決して怒りではないその代わりに……悲しみの色を宿して。

「それなのにどうして、よりにもよって。一番幸せになれない(あいて)を選んじゃうかな」

「わ……わかんないよ、そんなの! 気が付けばもう、物心ついた頃からそうだったんだから!」

「……男見る目無いんだね。驚いたな」

「う、うるさいなぁ、もう……っ」

 でもね、と。彼は無表情にうっすら微笑みを重ねてみせた。妹である静音でもやっと判別できるくらいの、仄かな笑み。暗闇の中にポッと灯る、蝋燭の炎を思わせる。


「本当に男見る目、無いよ。俺はもう、静音の幸せを壊してるのに」

「……え?」

 濡れる眼をきょとん、と丸くして。静音は彼の言葉を待つ。


「俺のせいだから。全部、俺のせい」


 彼の言わんとしていることが何一つわからなくて、読めなくて。ただ、押し黙ることしかできない。ただ一つわかることがあるとすれば……彼の先程から浮かべている笑みが、自嘲から来ているということだけだ。


「小学生の時。習い事を()めさせられたのはどうしてか覚えてる?」

「お、お父さんと香澄ちゃんが離婚したから?」

「じゃあなんで香澄さんが『お母さん』って呼ばれたくないか知ってる?」

「そん、なの……。いつまでも若く見られたいからじゃないの?」

「じゃあ……! あの二人が離婚したのいつだったか覚えてる?」


 目の前にいる彼は、いつもの桐谷ではなかった。普段の緩慢な喋り方を忘れてしまったのか、それともこれが本来の彼なのか。矢継ぎ早の質問に、静音の頭はくらくらしてしまう。


 あの二人、というのは恐らく両親のことを指すのだろうことはわかる。いつ頃だったかを思い出すのに時間がかかったのはきっと、話の方向性が依然見えないからだ。

「わ、私が十歳の時」

「そうだよ。けど、正確には違う」

 くしゃり、と音を立てて。桐谷は己の短い髪を乱暴に掴んだ。ただそれだけのことのはずなのに。静音にはまるでそれが……自傷行為のようにすら見えた。


「正確にはね、俺の成人式の翌日だよ」

 きっとね、耐えられなかったんだよと。桐谷は小さく呟く。

「本当はきっと、もっと耐えるつもりだったんだろうと思う。せめて自分の娘が二十歳(ハタチ)になるまではって。けど耐えられなかったんだ。どうしてもあともう十年が、耐えられなかったんだ」

 誰が、なんて訊かずとも答えは明白だ。静音にはわかる、香澄のことだと。

「香澄さんが静音に『お母さん』って呼ばせないのはね、俺にそう呼ばせなかったから。俺にそう呼んでほしくなかったから。兄妹なのに統一させないのは変でしょ?」

 香澄の表情(かお)が、浮かぶ。桐谷を見るときの、あの冷ややかな目。

「二人が離婚したのも、俺のせいだ。俺との生活に、俺がいる生活に香澄さんは耐えられなかった」

 くしゃり、くしゃり。彼の髪が、指の形に変わっていく。

「俺がいなければよかった。最初からいなかったらよかったんだ。もしかしたら、ううん、きっと。そうすれば静音はきっと……ずっと、幸せだったはずなのに」

 桐谷は思い返していた。静音と初めて会った、あの日のことを。脳裏に未だに強く焼き付いて離れない。「可哀想」になんてさせないと。守ってあげるからね、と。初めての握手を交わしたあの日を。


 それがどうして、今日のたった今、この瞬間に繋がってしまったのだろう。


「家族を奪った。家を奪った。名字も、習い事の楽しみも。全部全部、俺が奪ったのに。俺が壊したのに」

 それなのに、どうして。

「なんで、俺のことを好きだなんて言うんだ」


 幸せになってほしいのに。「普通」の、幸せな恋をして。誰よりも、幸せになってほしいのに。どうしてよりにもよって、自分を選んだ?


「俺は今度は……静音から何を奪うの」

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