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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十五章:なつくもの ―弥生・上旬― 其の十八

 狼狽える声が追いかけてくる。それすらも振り切って。振り切らなければ、いけないような気がして。


「静音ちゃんが決める、ことだから……!」

 静音の選択肢を、(せば)めたくない。

「これから先、何が起ころうと。誰が何と言おうと……静音ちゃんの選択は間違ってなんかないって私は思うから……だから」

 握り締めた手のひらの、力を強めて。

「だから今だけ、お願い。今だけ、一緒に走って……!」


 懇願に近い、独白にも似たその台詞に静音が何を思ったかを小夜子は知らない。後ろを振り返ることなどできない。そんな時間すらも今は惜しい。

 静音が何ら抵抗もせずに共に走ってくれる幸運を今はただ、噛み締めるだけ。


 校門に到着すれば、橘の登場が予想外だったのだろう、静音は呼吸を整えつつも驚きの表情を隠せない。けれども誘われるまま、素直に助手席に腰掛ける。

「え、ちょっと何なのほんとに、どしたの?」

 事の次第を知らないのだから、半笑いになってしまうのも無理はない。

「君は後ろな」

「え……? わ、私も同席していいんですか?」

「ああ」

 小夜子としては、自分は校門で降ろされて、車内は橘と静音の二人きりになるのだろうと予想していたのだが。だってそうでなければ、二人の――桐谷に関する――会話を聴くことになってしまう。

 橘はどういうつもりなのだろう……恐る恐る後部座席に乗り合わせた小夜子は、橘からそっとウォークマンを手渡された。

「好きな曲を選んでいいから、しばらく聴いててくれ」

「……わかりました」

 イヤホンを両耳に装着。たったそれだけで聴覚のほとんどが奪われる。周囲の声もくぐもって聴こえる程度だ。

 ああ、なるほど、と。小夜子は電源を入れつつ、納得する。


 プレイリストの一覧に、最新の曲が見当たらないのが彼らしい。小学生だった頃に流行った曲名がいくつも並んでいるので、小夜子は思わずその頃に思いを馳せてしまいそうだ。

 しかし、今は思い出に浸っているときではない。好きなアーティストの曲を選び、再生。ものの数秒後にはイントロが流れ――そのあまりの音量の大きさに、面食らうことになるのだが。


 車が発進したのを確認するや、静音は待ちきれないとばかりに口を開く。

「ねぇ、恭兄(きょうにぃ)。いい加減に教えてくれても良くない!? 荷物も置いてきちゃったしさ……どこに向かってるかくらいは」

「見合いの会場だ」

 言葉を遮り、橘は早口にそう言った。

「結論から先に言っておく。桐谷は今日、見合いの席にいる。商談に近いもの……とは言ってもこれから先、どうなるかはわからない」


 間。

 静音は数秒の間を置いて、ようやく瞬きをする程度の動作を思い出した。やがては、自らの口から言葉を発する程度の自由も。

「……なに、それ? お兄ちゃんがお見合いするって……だからってそれが何なの?」

 橘としては、この反応は予想通りだ。そう、しらばっくれるに決まっている。


「別に隠さなくてもいい。俺は……わかっているからな」

 言葉を失う静音。信じられない、信じたくない気持ちでいた。ひた隠しにしてきた想いが、まさか橘にまで知られているだなんて想像もしていなかった。

 どんよりとした空気を払拭したくて、徐にウィンドウを下げてしまう。一声かけるべきだったかとも思ったが、そんなことが脳裏に霞むのすらあまりにも遅かった。子供の手のひら程度の隙間から突風がまとわりつく。額にうっすらと浮かんでいた汗も、ややもすれば霧散していった。こういうのも、「頭を冷やす」と言うのだろうか。


「……ってことは、小夜子もわかってるってこと、だよね」

 赤信号、ブレーキ。ほんの少し浮いた体のままに、橘は口を開く。

「いや、そんなことはないぞ決して」

「隠そうとしなくていいよ。事情を何も知らない子が、あんな必死の形相で迎えに来たりしないでしょ。それも走っちゃいけない体なのに、全力疾走でさ」

 静音はほんのり笑みを浮かべ、続ける。

「っていうか恭兄(きょうにぃ)がいくら否定しても、私はそう思い続けるからね」

 自信たっぷりな言い方だ。証拠も無いだろうに、なぜ。橘にはそれがわからない。ただ一つわかるのは、

「……なんで、そんなに確信が持てるんだ」

 否定しようがしまいが、結果は変わらないということだ。


「わかるよ、親友だもん。へへ」

 照れたように目を細めた静音。けれどそれでいて、真剣な眼差しを橘に向ける。

「で、どうする。このまま桐谷のところへ行くこともできる。学校に引き返すこともできる。選んでいいんだぞ、静音」

 信号は未だ、赤い。考える時間はきっと、ごく僅かなれど。

「……そっか、選ばせてくれるんだ」

 嬉しいなぁ、と。掠れた声で静音は呟く。

 やがて信号は、青へ。


「……お兄ちゃんのところ、行かせて」


 橘は返事をしなかった。その代わり、アクセルを踏み込んで。過ぎ去っていく景色のスピードに、拍車をかける。

「あのさ、お願いがあるんだけど。……こんなに必死で知らないフリしてくれてるんだから、さ。小夜子には私が知ってるってこと、黙っておいてくれないかな」

「いいのか、それで」

「うん」

 後部座席の小夜子を振り返る。イヤホンを深く耳に差して、ぎゅっと目蓋を閉じている。まるで祈りでも捧げているかのように。

「……世間に知られたら後ろ指を指されるだけの気持ちでも、親友が否定しないで、わかってくれてるって。それだけで私はもう、充分だから。充分、嬉しいから」

 そう言って、静音は柔らかく微笑んだ。


「……それじゃ、俺からもお願いだ」

 橘がぽつり、そう告げるので。

「桐谷のことなんだが。……静音が気持ちを伝える前に遠ざけたのは、お前を嫌ったりしているわけでも、気持ちを否定しているわけでもないんだ。そのことだけは、わかっていてほしい」

 静音はきょとんと瞳を丸くした。

「直接聞いたわけじゃないが、たぶん……あいつは」

「大丈夫だよ、恭兄(きょうにぃ)

 橘の台詞を遮って、静音は気丈な声色を振り絞る。

「……冷静に考える時間はあったから。お兄ちゃんが何を考えているかなんて、そりゃ具体的にはわかんないけどさ。私のこと嫌ってるわけじゃない……ってことくらいは、ちゃんと心得てますって」

 額の汗は、とうに失せて。早口に口走った台詞は、喉の乾きを促した。

「……そう、か。わかるものなんだな、言われなくても」

「わかるよ」

 乾いた声に、いい加減に嫌気が差して。小さな隙間の開いていたウィンドウを閉める。


「妹だもん」


 車から追い出された言の葉は風に乗って、たった一人。ぽつんと、路傍に置いてきぼり。


* * *


 『岩松』に到着したのはそれからもう間もなくのことだった。馬防のあしらわれた外壁は、どこか京の風景を想起させる。イヤホンを外したせいか、辺りの閑静な雰囲気が耳をすっと通り抜け、じんわり体に馴染んでいくようだ。


 ――……ここに、桐谷先輩がいるんだ。


 もちろん確証はない、が。藤の台詞を信じるならばもはやここに懸けるしかあるまい。


「俺と静音で中に入るから、君は車の中で待っていてくれ」

「は、はい」


 吐息の白さに、思わず目を奪われる。その靄の向こうに、鳥肌を立たせる静音の姿も。小夜子は急ぎ、コートを差し出す。元はと言えば、自分が無理やりここに連れてきたのだから。

「静音ちゃん。上着、着ていって」

「で、でも小夜子は?」

「私は車の中だから大丈夫」


 にこり、微笑んで。静音の肩にコートをかける。

「また後でね。待ってるから」

「……うん。ありがと」


 静音が、門を潜っていく。橘と並んでいるせいか、それとも門が荘厳なせいか知れない。彼女の背中があまりに小さく見えたのは。あの小さな背中に、あらゆる感情が、想いが詰まっているのだ。一度(ひとたび)針で突いてしまえば割れてしまえそうに膨らんだ、大きな想いが。


 車の中で待つつもりが、二人の姿が見えなくなるまで小夜子は見送ってしまっていた。

 両の指を畳み、手を合わせてしまうのは……きっと寒さのせいではない。


 ――……どうか。どうか、静音ちゃんが想いを伝えられますように。


 自分勝手、なれど。自己満足、なれど。

 そう願わずには、いられない。


* * *


「……でね、その人ったらミスした人の分の仕事まで請け負って、それなのにちゃんと定時までに書類を仕上げちゃって! もう本っ当に……」

 吹き荒ぶ風をものともせずに、見合い相手の女性は意中の男性の話ばかりしていた。一方の桐谷も終始、言葉を絶やしてはいないのだが。

「わかる……。そういう人いるよね……天才肌っていうより面倒事を全部引き受けちゃうタイプ。それなのに本人は苦労してるとか損してるとかまったく考えないの……本当に……」


 二人の台詞が、重なった。「かっこいいよね……!」と。

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