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ツクモ白蓮  作者: きな子
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第十五章:なつくもの ―弥生・上旬― 其の十六

 無茶を言うなぁとでも言いたげに眉を顰め、それでも何か思い出そうとするかのように必死に頭を抱えている。

「思い出してください、何でもいいですから!」

「わかった、わかったから。……ええっと、たしか……何と言っていたっけ」

 そこで、藤がぬっと現れたかと思いきや、橘のコーヒーカップにおかわりを注いでいく。そのゆったりと流れる時間の傍ら、小夜子の心臓は早鐘を打ち続けていた。

 ふっと閉じていた瞼を開き、橘がぽつりと言葉をこぼす。

「噴水だ」

「噴水、ですか?」

「桐谷が、会場には噴水があると言っていたんだ。そこで食事をするとも言っていたから、恐らく園庭付きの割烹屋だ」

 噴水のある、園庭付きの割烹屋。そんなものがこの小さな町にあるかどうか。もしかしたらこの町を飛び出して東京にまで出向いている可能性も――。もしそうだとしたら、さすがに場所を特定するのは不可能だ。


「……『岩松』じゃないですかね」

 ぼそり、低い声でそう呟いたのは意外なことに藤だった。コーヒーを注ぎ終えたのか、こちらに背中を見せてはいるが。

「『岩松』って?」

 困っているみたいだったんで、と前置きして、

「駅の反対側にある割烹料理屋です。この辺りは洒落たホテルなんか無いんでね、お見合いに利用するお客さんも結構いましたよ。そこそこ洒落てて飯は美味いし。散歩に使えるくらいの広い庭園と、噴水もありますね」

 淡々と藤が述べる間に、小夜子の勘は何度も何度も「そこだ」と叫んでいた。


「藤さん……ありがとうございます! 美味しかったです、ごちそうさまでした!」

 財布から取り出した千円札をテーブルに置き、足早に店内を闊歩する小夜子。彼女を追うのは無論、橘だ。

「おい、待てって!」

 会計を手早く済ませ、早足で店を出る小夜子の後ろ姿を追いかける。小夜子の携帯電話はまだ、彼の左手にあった。けれども今の彼女にとって、それは不要でしかない。

「本当に静音に知らせるつもりか? 携帯電話も無しに、どうやって……」

「冷静に考えたら、静音ちゃんは今頃はまだ試験中のはずですから。電話をかけたって出るわけがないんです。なので、行きます。直接会いに行きます!」

 コートを羽織り、扉を開く。瞬間に鳥肌が立ったのは、風鈴の高らかな音のせい、それだけではないのだろう。冷たい風に思い出されるのは、バスを待ったあの夜。傍らの彼の、あの一言。


「……桐谷先輩、言ってました。大事な物には一番があって、二番があるんだって。自分にとっての一番が誰なのか、ちゃんとわかっていないと駄目なんだって」


 ――「……そうじゃなきゃ、誰のことも大事にしていないのと、変わらないんだから。早く気付かないと、一番大事なものまで失ってしまうよ……」――


「今の私は……桐谷先輩の気持ちよりも、静音ちゃんの気持ちの方が大事ですから……!」


 小夜子は店を飛び出した。向かい風に煽られて、つい足を取られそうになるけれど……それでも走った。冷たい空気を気管が取り込み、肺に流れ着くのを感じても。

 二十分だ。たった二十分、これに耐えれば高校にたどり着く。たとえほんの数十メートルで既に息切れを起こしていたとしても関係ない。急がなくては――。


 縦に揺れる視界の隅、不自然にゆっくりと現れる車の陰。ウィンドウの開く音と、

「乗りなさい。学校まで送るから」

 冷静な声色を左耳が拾う。小夜子はなおも、足を止めない。

「嫌、です」

「何でだ」

「嫌です……! だって橘さん、そう言っておきながら、引き止めるつもりでしょ!」

「走るのをやめろ! 発作が起きたらどうするんだ!」


 「発作」なんて言葉を、使わないでほしい。大人の狡いところが透けて見えてしまう気がして。

「限界になるタイミングくらい、自分が一番、よくわかってます……!」

「『限界』なんて言葉を使う君を、黙って見過ごせるわけないだろ!」


 並走していたはずの車の、バックナンバーが見えた頃。急に停車したと思った瞬間に、颯爽と車から降りてきた橘。眼前に立ち塞がる彼には、小夜子も足を止めずにはいられない。と同時に聴こえてくるのは心臓の高鳴り。呼吸の合間に、空気の笛が小さく響く。

「いいから乗りなさい。……頼むから」

 この時初めて、小夜子はまともに橘の表情を見た。「頼むから」と言ったその台詞にあまりに似合いすぎる――悲痛な面持ちを。


「……なん、で。そんなに悲しそうな、顔するんですか」

 息も絶え絶えにそう問うも、返事より先に二の腕を掴まれる。

「君が言うことを聞いてくれないからだろ」

 強く引っ張られて。助手席に促されるまま腰かけると、一方の橘はすぐに車を発進させた。


「窓は開けた方がいいか? それとも閉めた方がいいか?」

「……開けた方で、お願いします」

 冷たい新鮮な隙間風が額の汗を撫でる。上気した体も、ややもすればこの熱を忘れることだろう。


 見慣れた景色が徐々に視界に馴染んでいく。車は間違いなく学校に向かっているようだ。「学校まで送る」といった橘の台詞に、嘘偽りは無いらしい。


「桐谷よりも静音の気持ちの方が大事だと、そう言ったな」

「……はい」

「桐谷建設には社員がたくさんいる。数百人単位だ。そして当然ながら彼らには家族もいる」


 想像してみてほしい、と添えて。


「この見合いは単なる出会いの場として設けられたわけじゃない。桐谷建設の未来……数百人の社員と、その家族の人生が、未来がかかっている。それらと静音の気持ちを天秤にかけたとき、優先されるべきはどちらだと思う」


 ああ、やはり狡い。そんな聞き方は狡い。

「……きっと一般的には、後者なのでしょうね」

「そうだな。だが君は、静音を選んだ」

 狡い、けれども。なぜか小夜子は、責められている気がしなかった。橘の口吻に怒りは見えなかった。

「桐谷は自分の気持ちより、会社の都合を優先した。見合いをあんなに嫌がっていたのに、だ。だから俺は、桐谷の選択を尊重した。静音よりも……そちらを尊重した」

 それどころか小夜子に語りかける一方で、どこか頭の中を整理しようとしているかのよう。


「あの……橘さん?」

「うん、決めた」

 法定速度の範囲内、なれど。車は加速する。隙間風が突風に変わり、小夜子の前髪をさらっていく。

「ど、どうしたんですか!?」

「桐谷が言ったんだよな、『人には誰にでも、一番大事なものと二番目以下がある』って」

「え? は、はい」

 首肯すると、橘ははぁ、と一つ深い溜め息を吐いて、

「どれが一番大事か、とか。尊重するか、とか。考えるのが面倒になってきたな……」

 言葉の響きとは裏腹に、ハンドルを握る手に力が入っていくのを小夜子は見逃さなかった。


「全部大事ってことにしていいか? ……いいよな」

続きは土日に公開致します。

よろしくお願いいたします。

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