第十五章:なつくもの ―弥生・上旬― 其の十五
それはどういうことかと訊かずとも、小夜子にはわかる。
「静音ちゃんは……生まれた時から静音ちゃんだったんですねぇ」
「だな。家庭を顧みないはずの父親も、静音には今でも甘いらしいしな。香澄さんは香澄さんで念願の自分の子供だ、可愛く思わないはずもない。静音が生まれてからは、あの家はかなり明るくなったらしいぞ」
小夜子につられてか、橘の表情が和らぐ。その瞳の輝きはまるで、遠い昔に思いを馳せるように。
「俺が出会ったばかりの頃の桐谷は、昔のことをあまり話したがらない奴だったんだが。……静音が生まれてからの話は別だ。訊いてもいないことを自分から、ぺらぺら喋るくらいにはな」
静音と初めて出会った時のこと。
オムツを何度も替えたこと。
初めて寝返りをうった時に、壁に頭をぶつけたこと。
初めて口にした「お兄ちゃん」が、「ニーチェ」だったこと。
家族旅行で迷子になった静音を、一生懸命捜したこと。
静音に関する話をする時だけは、頬を綻ばせていたと。そう橘は振り返る。
「あいつにとって静音は、大事な妹なんだ。……それ以上も以下もない」
「大事な」――その言葉を聞いて、ふっと甦る記憶。
「でも、桐谷先輩は言ってましたよ。一番大事なのは橘さんで、今は二番目以降のことは考える余裕なんてないって」
「すごいこと言うな、あいつ。さすがにビックリするぞ」
そう言いながら言われ慣れているのか、橘の表情は真顔である。切り返しの早いことに、すぐに思案顔に移るのだが。
「たぶん、違うな。あいつが言いたかったのは、静音が大事じゃないってことじゃなくて――」
橘の台詞を遮ったのは、だんだんと大きくなってくる藤の足音。そして、携帯電話の着信音だった。
携帯電話のディスプレイを確認するや、一瞬表情を曇らせる橘。
「話の途中に悪いが……出てもいいか?」
問いかけに二つ返事で了承すると、彼は声を抑えながらそのまま電話に出た。
「お待ちどうさん」
時を同じくして藤の太い腕が、二人分のハヤシライスをテーブルに置いていく。ほわりとした湯気が漂っただけで、テーブル全体が仄かに温もりに包まれたよう。腹の虫も、濃厚な香りに反応してか今にも暴れだしそうだ。
「紅茶のおかわりは?」
「あ、いえ、大丈夫です!」
藤と無難な会話を交わしつつ、小夜子は自然と橘の台詞に耳をそばだててしまっていた。
「……そうか、これからか」
電話の相手は何か言葉を発しているようだが、先程とは異なり女性の甲高い声は響いてこない。橘の表情、声色も穏やかだ。もしかしたら相手は男性なのかもしれないな、と小夜子はぼんやり思った。
「まあ、あまり気張らないようにな。時折笑って、相手の話をよく聞いて……そうだな、会話に困ったら『趣味が合いますね』と言っておけ」
それからしばらく、橘は相手の話に耳を傾け――、
「ああ、何かあったらまた連絡しろよ」
やがてそう言って、電話を切った。
「先に食べてくれててもよかったのに。ありがとうな、待っててくれて」
こちらに向き直るなり、橘はそう言って微笑んだ。「すまない」ではなく、「ありがとう」と。
「い、いえ。運ばれてきて、そんなに時間も経ってないですし。いただきます!」
一口、ハヤシライスを口にして。一瞬で舌にとろける感触を覚える。濃厚な味付けはご飯との相性もぴったりだ。『心屋』の食卓に並ぶそれとは、また違った意味での懐かしさを感じてしまう。
「すごく美味しいです……。藤さんは本当にお料理上手ですね」
「だな。平日の昼は結構混雑しているみたいだしな」
そんな他愛もない会話を繰り広げつつ――ハヤシライスに舌鼓を打ちつつ――小夜子の頭の中で、一つの嫌な予想が右往左往していた。時間の経過ごとに、ハヤシライスを口に運ぶ度に――胃が、重たくなっていく。
何がそうさせるかといえば――答えは焦燥、だろう。
「……あの、ところで橘さん。先程の電話って誰からだったんです?」
「ん? 桐谷からだ」
「そう、ですか」
ああ、やはり。嫌な予感の一つ目が的中してしまう。まさか。まさか、とは思うが。二つ目は当たらないと思いたい――。
「これからちょうど見合いが始まるらしくてな。報告……というよりは相談だな」
的中してしまった。まさかの二つ目も的中してしまった。
小夜子は悟る。血の気が引いていく音というのは、全身に響き渡るものなのだと。
「し……静音ちゃんはそのこと知ってるんですか!? お見合いが……今日だって!」
「い、いや。知らないと思うぞ」
眼鏡の奥、黒い瞳が丸くなっている。小夜子が突然に表情を変えたからだ。大声を出したからだ。早口で捲し立てたからだ。
「そんな……! は、早く知らせないと!」
「……んん!? 何故そうなる!?」
穏やかな表情を崩した橘を尻目に、携帯電話を取り出し着信のボタンを押す。二回目の呼び出し音がかかったその時、だ。
「な、何するんです?」
橘が携帯電話を取り上げたのだ。それだけではない、途切れた呼び出し音が空しく残響する。
「あのな、前にも説明しただろ? 桐谷建設にとってこの見合いは、大事な商談みたいなものなんだ。静音に知らせてどうなる? 見合いの会場に突撃でもするつもりか? 破談にでもなったらどうするんだ?」
怒っているような口吻ではなかった。どちらかというと呆れの色が強い。けれども小夜子は口を開く。
「静音ちゃん、想いを伝えてないんです。好きだってちゃんと言えてないんです。言うつもりもなかったのに、桐谷先輩に気持ちを悟られて、受け止めてもらえなくて……」
ひとまず言い分を聞こうとしているのか、橘は口を閉ざしたままだ。
「そんな最中にお見合いなんて。静音ちゃんの気持ちは……想いはどうなるんですか? 会社の都合がどうしても優先されてしまうんですか?」
「……君の言いたいことも、静音の想いを優先したい気持ちもわかる。よくわかるよ。けどな、さっきも訊いたがどうするつもりなんだ? 静音に知らせたところでどうなるか……俺にもわからないぞ」
「……静音ちゃんが、選ぶことだと思います」
もしかしたら静音は、知らされたところで橘と同じことを言うかもしれない。
それならそれでいい。
ただ、彼女の知らないところで彼女の気持ちが終わりを迎えてしまうのは、どうしても避けたいのだ。
「静音ちゃんの選択肢を取り上げないでほしいんです。大人の事情に振り回されてきたのはきっと……桐谷先輩だけじゃないって思うから」
はっとした。言い終わって、小夜子はまたも嫌な予感に囚われてしまったのだ。
「それに静音ちゃんはお見合いのこと、知らないわけですよね? あんなに嫌がっていたはずの桐谷先輩がお見合いに踏み切ったことを後から知ったら、『私のことが嫌いだから、私の気持ちが迷惑だから、諦めさせるためにお見合いするんだ』とか思ってしまうかもしれません……!」
「え、何でそうなる? 見合いはずっと前から決まっていたことだぞ?」
「ナイーブなときの女の子というのは疑心暗鬼になってしまうものなんです!」
「ええ……。女の子って大変だな……?」
どこか遠い目をして、珍しくも理解が追い付いていないような目をする橘。ここまで言っても、どうやら携帯電話を返してくれる気は無さそうだ。
「お願いします、静音ちゃんに連絡させてください……!」
「……というか、一つ疑問なんだが」
いつもの冷静な声色に戻った橘がぽつり、言葉を落とす。
「君はお見合いの会場がどこなのか知っているのか? 俺は知らないぞ」
「あ」
いつもより倍は働いていた小夜子の唇が、ぴたりと止まる。桐谷に訊いていないのだから知るはずがない。ましてや小夜子はこの街に来てから一年も経っていないのだ。お見合いの会場に使われるような施設なんて一つたりとも思い付かない。
「な、なにか手がかりは無いんですか!? ノーヒントですか!?」
「手がかりって君……」
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