第十五章:なつくもの ―弥生・上旬― 其の十四
小夜子は妙な――耳の隣に心臓があるかのような――錯覚に陥る。無理もない。普段は物静かなはずの鼓動が、煩しいまでに高らかに響いているのだから。
「血が繋がっていない……本当の兄妹じゃないってことですか?」
「ああ」
驚きこそすれ、胸にすとんと来た、とでも言おうか。すぐさま納得してしまう小夜子。桐谷と静音が顔立ちから性格、雰囲気に至るまでに少しも似ていないのにも説明がつく。
誰にも聞こえてはいないだろうに声を潜めて、橘は続けた。
「桐谷がまだ、うんと幼い頃の話だ。両親が事故に遭ってな。二人ともが亡くなってしまったんだ」
『事故』というその言葉を言いたくなかったのか、はたまた小夜子に配慮してか、珍しくも彼は早口だ。
「それじゃ……その後、桐谷先輩を引き取ったのが静音ちゃんのお父さん、お母さんだったってことですか?」
「いや……うんまあ、そうなるか」
煮え切らない返答。どうやら彼の話には、まだ続きがあるらしい。小夜子が何も言わずに待っているのを察したのだろうか。諦めたように一つ、息を吐いて。
「……桐谷は静音の両親に正式に引き取られるまでの数年間、父方、母方の親戚筋を転々としていたそうだ。引っ越しの関係もあって、幼稚園や保育園には行かせてもらえなかった」
転々としていた、だなんて橘らしい、綺麗な表現だと小夜子は思う。要は「たらい回し」。お金のかかる時分の子供の面倒なんて、誰も見たがらなかったのだろう。
「だが問題だったのは、それじゃない。両親がいなくなって、幼心に不安やストレスを抱えていたせいもあっただろう。生まれつきのボーッとした性格に、拍車がかかったらしくてな。笑わない、泣かない、怒らない……そんな風に育ってしまったんだ」
コーヒーの水面が、揺れる。もう一息ついてから、彼は再び口を開くのだった。
「それを面白がったのが親戚の子供たちだった。大人が見ていない隙に、桐谷を小突いたりわざと転ばせたり……とにかく、何をしても何の反応もしない桐谷に、やりたい放題していたようだ」
「そんな……ひどい、です」
それ以上の言葉は出てこなかった。両親を喪って、独りぼっちになってしまった幼い子供。きっと寂しかったろう、心細かったろう。
そんな彼が手にするものが人の心の思いやりや、温もりであればどんなに良かったろう。
「これは憶測の域を出ないが、自分の両親が桐谷にとられる、とでも思ったのかもしれない。子供ってのは時として、大人でも思い付かないような……純粋ゆえに残酷なことをすることがあるから」
橘は冷静だった。コーヒーカップをもう一度、口に運ぶくらいには。一方の小夜子は未だ、ミルクティに手を付けることが出来ずにいるのだが。淀んだ感情がかき混ぜられ、身体中を這いずり回る気がして。
「だが……怪我や痛みの程度よりも。その後の影響の方がずっと深刻だったかもしれない」
それこそ憶測だが、と前置きして、橘はコーヒーカップをそっとテーブルに置いた。
「……桐谷は自分の破壊衝動を生まれつきのものと思っているようだが……俺は違うと思う。ストレス解消だったんじゃないか、と思う。まだ幼かったあいつにとっての……自分に向けられた暴力に対抗する、唯一の術だったんじゃないかって」
人を傷付けるわけには、いかないから、と。
彼の破壊衝動にも、表情の変化に乏しいのにもすべて、生い立ちに原因があったのだ。まさか橘がここまで話してくれるだなんて思っていなかった小夜子は、思わぬ新事実の連続に頭がくらくらしてしまう。
「……関係ないことまで喋りすぎたな。反省だ」
はあ、と溜め息を一つ。顰められた眉に、深い皺を刻む眉間。
「い、いえ、ありがたいです。それに関係あります。きちんと理解するためには、大事なことだと思います。静音ちゃんのことだけじゃなくて……桐谷先輩の気持ちや考え方。それもわかっていないと……偏ってしまうかもしれないですから」
偏ってしまう、という発言の意味するところを察してか、橘は固い表情を崩した。
「君は静音の親友なんだから、まあそれが一般的なのかもしれないが。殊勝とでもいおうか、賢明な心構えだな」
なにやら辞書を引かなければならないような言葉に首を傾げてしまうが、それよりも今は話の続きだ。言わずとも、橘も同じ気持ちだったらしい。
「さて、話を戻そうか。静音の両親が桐谷を養子として引き取ることになったのは、桐谷が九歳になった頃だ。彼らは結婚して何年も経つのに、子宝に恵まれず……いよいよ不妊治療を検討していた頃に、両親を喪った幼い親類の存在を知ったってわけだ」
「そう……だったんですか」
両親を喪った子供と、子供を渇望した夫婦。傍から見れば、これ以上の取り合わせはないだろう。けれど橘の表情は晴れない。それどころか暗い陰を落としてすらいる。
「ただ、香澄さん……には会ったことあるんだよな? 彼女は最後まで反対していたそうだ。彼女としては、自分が産んだわけじゃない子供を可愛がる、なんてことはできなくてな。同じ敷地内にいながら、共に食事をとることも、会話することすらほとんど無かったと。桐谷からしてみれば、正式に引き取られたからといって、特に環境が好転したわけではなかったかもしれないな……」
小夜子は思い出す。ほんの一月前のことだ、容易に思い出せる。静音に似た、活発な印象を与える豪快な笑み。明るくて優しそうで、面倒見も良さそうな――。
けれど芽衣の、そして橘の話を聞かされた今となっては、頭に浮かぶあの愛嬌のある笑みも爛れて歪んでしまう。
「あんなに優しそうな人だったのに。静音ちゃんのお母さんは……どうして、そんな酷いことができたのでしょう」
純粋な疑問だった。だって、おかしいじゃないか、と。血の繋がりが無いとはいえ自分の子供になる相手だ。心からの愛情こそ芽生えなかったとしても、せめて家族として温かく迎え入れるくらいのことはできるはずだ、と。
そう訴えるも、橘は依然として弱々しい笑みのままだ。
「……俺たちにはわからないさ、わかるわけもない。社長の世継ぎを親類の多くに期待され、しかしそれに応えることができなかった若い女性の気持ち、なんて」
コーヒーも、ミルクティも……そろそろ冷めてしまいそうだ。ティーカップの側面は未だ温もりを孕んではいるけれど。肝心のカップの中身から、湯気はとうに失せていた。
「望まれて、期待されて、それなのになかなか子供ができない。言葉にはせずともプレッシャーをかけられていたかもしれない。陰で嫌味も言われていたかもしれない。何年も、それに耐えていたかもしれない……そんな彼女からしたら、桐谷は厄介者……コンプレックスの塊でしかない」
もしかしたら、彼女のあの笑みは――苦しみに耐えて、耐えて、耐えて――その果てに得たものだったのだろうか……。
そこまで考えて、ああ、そうかと小夜子は悟った。だからきっと、あの母娘は似ているのだ。
「……でも」
「でも?」
鸚鵡返しにそう問われるので、言ってしまおうかどうか迷ったことすら霧散してしまう。
「でも私は、誰か……誰でもいいから、桐谷先輩に優しくしてほしかったです。幸せになってほしかったです。そうならなかった事情があったのは、わかりましたけど……」
桐谷は何も悪いことをしていない。ただの幼い子供だった。不幸な事故で両親と引き離された、幼い子供だった、だけだ。それなのにどうして、大人の事情に翻弄されなければいけないのだ。
その感情は悲しみにも、怒りにも近い。
眼鏡の奥、橘の黒い瞳がふっと和らぐ。
「そうだな、俺もそう思うよ。だから……静音が生まれたのは、あいつにとって生まれて初めての、幸福だったかもしれないな」




