第十五章:なつくもの ―弥生・上旬― 其の十参
* * *
一度しか来たことのない場所でも、案外覚えているものだなぁ、と小夜子は思った。
目の前にはクリーム色の外壁のアパート。前回訪れたのは夜だったからよく見えなかったが、亀裂が所々に入っているのが昼前の今はよく見える。
橘に今朝、連絡を入れてから優に二時間は経つ。連絡とは言っても電話では失礼かと思いメールにしたのだが――返信はまだ、来ていない。
[橘さん、おはようございます。朝早くにごめんなさい。
聞きたいことがありましたので、メールを入れてみました。
電話だと話しづらいので、できれば会ってお話がしたいです。
突然、しかもお休みの日に申し訳ありませんが……ご都合はいかがでしょうか?
小夜子より]
送信済みのメールを再確認してみても、特におかしな文面は見当たらない。それどころか絵文字も顔文字も一切使用していない、一切の色気の無いそれ。
「うう……橘さんに限って、無視ってことは無いと思うけど……」
そう独りごちるも、やはり不安だ。
メールの返信が無いまま数十分が過ぎた頃。いても立ってもいられなくなり、心屋を飛び出して……橘のアパート前まで来たのが一時間ほど前。
暦の上ではとっくに春だが、三月に入ったばかりとあって空気も冷たい。既に耳たぶの感触は無くなってしまった。手袋で両耳を覆いながら、耳当てをしてこなかったことを小さく後悔する。
寒さというのは、判断力を鈍らせるものなのかもしれない。徐に階段をゆっくり上がっていたかと思えば、いつの間にか小夜子は橘の部屋の扉の前まで来てしまっていたのだから。
「……もしかしたら留守かもしれない、し。押してみるだけ」
呼び鈴のボタンに人差し指を乗せた、その時だ。
「…………だからな、そんなこと俺に言われても困るんだって……」
扉の奥から、微かに漏れる低い声。
「困るもんは困る。君の好意はありがたいが、その件は俺には無関係だろう」
橘の声だ。扉越しながら、困惑の色が見て取れる。どこか苛ついているようにも感じる。
来客中か、と一歩下がる小夜子。しかし、橘と話しているはずの相手の声は聞こえない。
……それよりも気のせいか、橘の声がだんだん、大きくなっている、ような。
「何でって……忘れたか? 前にも言ったろう?」
カチャ。金属のぶつかる、小気味良い音がしたと思った次の瞬間には、扉がゆっくりと開かれ――、
「俺には好きな人がいるんだって……」
……橘の声が、小夜子の耳を遮蔽物無しに通過した。
左耳に携帯電話を押し当てた橘と、目が合う。途端、固まる両者。数秒後には目の泳ぎ始めた橘が、
「……いや、悪い。そういうことだから。いい加減切るぞ」
なぜか片言口調になって、そのまま通話を終わらせるのだが。
電話の相手にとっては予想外だったのだろう、「橘さん!? ちょっと!?」と甲高い残響。どう考えても電話の相手は女性だ。
「……えっと。すみません、驚かせてしまいまして。電話の途中でしたよね、ごめんなさい。でも、何も切らなくても良いですのに」
「あ、ああ、いや良いんだ。かれこれ二時間も話してたんだ、切るタイミングを探してたところだったからちょうど良かった」
「に、二時間も?」
二時間も電話で話す異性なんて、恋人でもないとそうそう出来ないことなのではないかと小夜子は思うのだが。
……思っていたことが、顔に出ていたのかもしれない。
「……言っておくが! 相手は同じ職場の後輩で、親が早く結婚しろとうるさいだの恋愛に悩んでいるだのと、延々と話を聞かされていただけだからな!」
「は、はぁ。それは大変でしたね、お疲れ様です」
彼はそう言うけれども、どう考えても電話の女性は橘のことを好きだろうに。恐らく告白に近いものすらしてみせたのだろうに。盗み聞きしてしまった橘の返答がそう物語る。
「で、その……どうしたんだ、何かあったのか?」
話題を変えたいのだろう、橘が扉の郵便受けから新聞紙を取りながらそう問う。
「あの、メールにも書いたのですけど、聞きたいことがありまして。……それでその……ご迷惑かとは思ったんですけど来てしまいました」
「メール?」
携帯電話を確認するやいなや、橘はたちまち青ざめた。
「すまん、電話をしていてメールに気が付かなかった。……まさかとは思うが、ずっと外で待ってたのか?」
「あ、いえ。さすがに二時間は待ってないですよ!」
そう言った直後だった。両の頬が、熱いくらいの温もりに挟まれたのは。
「……冷えてるな。さては一時間は外にいたな?」
その正体が橘の手のひらだと気付くのに、そう時間はかからなかった。感覚の薄れていた頬が、徐々に熱を覚え始める。
「た、たたたた橘さん!?」
「どうなんだ?」
珍しく詰め寄るような口調に、思わず言葉を詰まらせてしまった。大人しくこくん、と縦に頭を振れば、深い溜め息で返される。
「……本っ当に君は仕方のない子だな。風邪をひいたらどうするんだ」
……同時に降ってきた言葉は、台詞の響きとは裏腹に優しい香りを纏っていた。
じわりじわり、頬が感触を取り戻す。顔をすっぽり包み込んでしまえそうなくらいの大きな掌。肌の弾力、指の長さや形も違う。そっと触れてみれば、女子には無い骨ばった感触まであるのだから面白い。
同じ人間のはずなのに、男と女でこうも違うなんて。
「橘さんの手、おっきくてあったかいです……」
初めての感覚に、もう少し身を委ねていたかった――のだが。突如離れた、両頬の温もり。気のせいか、ほんの少しだけ彼の熱が名残惜しい。
「で、そ、その。なんだ、訊きたいことって?」
……気のせいか、橘の頬がだいぶ赤くなっているのは。いやいや、今はそんなことは気にしていられない。
「……静音ちゃんと、桐谷先輩について、です。橘さんなら知ってるかなと思って。……こう言えばわかります、よね?」
目を丸くして、フリーズ。眼鏡の奥、レンズ越しに焦りの色が見て取れる。けれどもそれも、ほんの一瞬のことだった。
「……場所を移そう」
「え、何でですか?」
橘の提案に、すぐさま反応してしまう小夜子。彼女としては、そのまま橘の家で話を聞くことになるだろうと思っていたのだが。
「『何でですか』って、君……あのなぁ」
どうやらそういうわけにもいかない事情を彼は抱えているらしい。その事情を話すつもりも、呆れの表情を隠すつもりも無いようだ。クエスチョンマークを飛ばす小夜子をよそに、思案顔を浮かべているのだから。
「無難なのは喫茶店……は、ダメだな。誰の耳に入るかわからない」
言いながら、車のキーを右手に固く握り締めている。
「行き先は車を走らせながら考える、でもいいか?」
「は、はい。ありがとうございます、お言葉に甘えます……!」
小夜子はそれでもやはり、少し、気になってしまう。
「どうしても橘さんのお家じゃ駄目なんです?」
「……それがどうしてなのかわからない内は、絶対に駄目だな」
思っていたよりもずっと手厳しい返事に、面食らうことになるのだが。
* * *
車に揺られること、数分。ふわり、頭の中が少しだけ靄がかってしまう。重みを増す瞼。それが外の寒さからやっと解放され、体が温まってきたからなのか、それとも橘の運転が穏やかだからなのかは知れない。
急ブレーキ、急発進も無いので体が前後左右にぶれることが無い。常に安定した運転に、緊張も緩む。車そのものの揺れよりも、この緩みこそが眠気を誘うのではないかと小夜子はぼんやり考えた。
「……静音、元気か?」
「え。ええっと」
問いかけられた途端に、意識はぱっと明るくなる。
「学期末試験に出席できなかったので……再試験を、今日から二日間。ですので学校にいます。元気は……少しずつ取り戻してきましたけど」
「そうか」
小夜子の言葉の真意を汲み取ったらしい。橘はその後はただひたすら、黙って車を走らせるだけだった。
十分ほどの後、見覚えのある建物が目に入る。その傍らの駐車場に車を停めると橘は、小夜子にも降りるよう促してきた。
「橘さん……ここも喫茶店ですよ?」
「人の耳に入らなければどこでもいいさ」
なるほど、たしかにそれはそうだが店主に少しばかり失礼ではなかろうか――。そんな疑問も、開かれた扉の高らかな風鈴の音が、徐々に打ち消していった。
「いらっしゃい」
風鈴の高い音に重なる低い声。出迎えるのはギンと吊り上がった鋭い目付き。眉間に寄っている深い皺は、営業スマイルなどという言葉は知らぬと叫ぶ。
それのせいもあろうか、店内を見渡せども客はおらず。喫茶『藤』は、今日も閑古鳥が鳴いていた。
「奥のテーブル席、空いてますか?」
橘の問いに首肯を返した藤は、小夜子の姿を認めてメニューを手渡した。
「注文は?」
「え、ええっと。どうしようかな……」
「誘ったのは俺だ、好きな物を頼むといい。お昼もまだなんだろ?」
「そんな、そういうわけには!」
いつもお世話になっているのに、今日は時間を貰った上にご飯を奢ってもらうだなんて、と。小夜子は遠慮したかった。遠慮したかった――のだが、そうはさせてくれない腹の虫。きゅううううん、子犬の鳴き声が辺りに響く。
「……ここのハヤシライスは、美味いぞ。遠慮はしなくていい」
「あ……りがとう、ございます」
真っ赤に染まる顔を隠すようにして、小夜子は深々と頭を下げた。
注文の後、迷いなく店の奥へと歩を進めていく橘。彼の後へ続く小夜子は、まるで雛にでもなったような気分だ。
彼の言っていた「奥のテーブル席」は、L字型のカウンターに沿った通路の先にあった。木製のテーブルを挟んで、二人掛けのチェアが対に並んでいる。他の客席がカウンターから見える位置にある一方で、この席だけが完全なる死角。
「秘密の話をする場所を作りたかったらしい。ここなら他の客席に声は届かないし、藤さんに聞かれることもない」
鍋に火をかける音が、遠くに感じる。
なるほど、たしかにこれならば――現在は客がいないのはたまたまだったとしても――カウンターにいる藤に、声を拾うことはできない。耳に心地好い小さなBGMも、その手伝いとなろう。
「もしかして橘さん、ここに何度か来たことあるんですか?」
「ああ。正月に来た時が初めてだったんだが……店の静かな雰囲気と、味が気に入ってな。ちょくちょく来るようになったんだ。名前を覚えられるくらいにはな」
「へえ、そうだったんですか。たしかに、ここってすごく落ち着きますね。読書なんかにも集中できそうです」
他愛もない会話が繰り広げられる中で、トレイに二つのカップを載せた藤が音もなく現れる。小夜子の前にコーヒーを置いていくので、小夜子はあれ、と目を丸くしてしまう。
「藤さん、コーヒーを頼んだのは俺ですよ」
橘がそう指摘してからコーヒーカップを移動させると、藤は解せぬとばかりに眉根をひそめた。ぽつり、ぼやきながら。
「いつもは、こっちなのにな……」
小夜子の目の前に置かれたのはミルクティだ。鼻腔をくすぐる柔らかな香りに、頬を綻ばせたところで。
「橘さんもミルクティー、好きなんですね!」
「ま、まあな……!」
世間話に花を咲かせるも、橘は渋い表情を隠さない。……頬に朱がさしているような気もするが、気のせいだろうか。
「……さて、と。それじゃ、本題に移るとしよう」
藤が姿を消したところで一転、真剣な眼差しがこちらを見据える。
「桐谷と静音のことで聞きたいことがある……と言ったな。俺なら知っているかも、とも」
こくんと頷いたところで、橘はそっと瞼を伏せた。
「念のために訊くが、君はひょっとして知ってるのか?」
「静音ちゃんが……桐谷先輩を好きってことですよね?」
伏せられた瞼がぴくりと小さく動いたのを、小夜子は見逃さない。
「……私は、静音ちゃんの好きな人を別の人だと、長いこと勘違いしてしまっていたから。もしかしたら静音ちゃんのこと……そうとは知らずに傷付けてしまったことがあったんじゃないかって、思うんです」
バレンタインデーのことだってそうだ。自分が桐谷に何も渡そうとしなければ、今のようなことにはならなかったのではないかと。せっかくの土曜日に、再試験を受けることにならなくて済んだかもしれない。進級が危ぶまれることだって――。
「知ったところで……私にはたぶん、何もできない。自己満足にしかならないだろうってことはわかってます。けれど、もう嫌なんです。先入観や思い込みで、知った気になるのは嫌なんです。もしかしたらそれが、誰かを傷付けることに繋がってしまうかもしれないから」
だから教えてほしいんです、と続けたところで。伏せられていた瞼が、黒の瞳をゆったりと導いた。
「……わかった。そこまで言うなら話そう」
どこか覚悟を決めたような、そんな語調だ。コーヒーを一口だけ啜って、やがて彼は再び口を開く。
「ただ、俺がこれから話す内容は他言無用。誰にも話さないでほしい。静音や桐谷、当事者にはもちろんのこと、君の友人や家族にも。それだけデリケートな話だからな」
「は、はい。お願いします」
ミルクティを口に含んでから、小夜子はぴんと背筋を伸ばした。
「まず、結論から言おう。静音はたしかに桐谷が好きだ。妹が兄を慕うような気持ちではなく、女として男の桐谷を、という意味でな。恐らく、君が知っているのはここまでだと思う」
「……はい」
ああ、ほとんど確信していたとはいえ、橘の口から言われると真実味が――否、現実味が増していく。
「そしてあの二人には、血の繋がりがない。これは、静音も知らないことだが」
「…………え?」




