第五章:こわすひと ―長月― 其の三
その、「壊せるのなら」という台詞を耳にした瞬間。背中に走るのは、血液の逆流していく感覚。寒いから、などでは決してないはずだった。どうして、そんな台詞が吐けるのか、そんな笑みを浮かべていられるのか、小夜子にはわからなくて。それでも、鳥肌は全身に伝っていって。小夜子はついに、本当に何も言えなくなってしまった。
「……佐々木さん!」
そんな小夜子を現実の意識に返してくれたのは、ぜいぜいと息を切らす橘だった。傘を差さずに走ってきたのか、頭の天辺から爪先までもが雨でしとどに濡れている。
「おや、たちのきくんじゃないか」
見ると、奏一郎はいつもののほほんとした穏やかな表情を浮かべていた。それを認めた小夜子は小さく、安堵の息を漏らす。
彼の登場に、ショベルカーは今度はその動きを止めるだけでなく、屋根に今まさに襲いかかろうとしていたそれを引っ込ませた。
「いったい何をしているんです!?」
橘の強い口調。眉は吊上がり、怒りの目はまっすぐに佐々木に向かっている。しかし、それでも佐々木の横柄な態度は変わらない。
「君がさっさとこの店を立ち退かせないから、こんな面倒なことになるんだろうが」
「な……」
当然とでも言わんばかりの態度。小夜子は、いい加減に堪忍袋の尾が切れそうだ。
――橘さんは何も悪くないのに……! なんなの、この人!?
そんな小夜子に、奏一郎が「落ち着いて」と手で合図するので、彼女はきゅっと唇を噛む。
その間にも、橘の抗議は続く。
「正式な手続きも取らずに、こんな……! これは犯罪ですよ!」
「……まあまあ、落ち着け、橘」
余裕綽々とでも言うのだろうか、佐々木が宥めすかすかのように橘の肩をぽんぽんと叩く。橘は途端、肩を震わせた。小夜子の目には、その汚い手を振り払ってしまいたい衝動に駆られているように見えた。
そして、
「後でちゃんと揉み消すさ。大丈夫、君に迷惑はかけんよ」
彼が、その言葉に固まったようにも、見えた。
* * *
――この男は……迷惑をかけなければいいと、思っていたのか?
……誰に。……俺に? ……俺、一人に?
そうすれば、俺が従うと思っていたのか?
過去に、自分がなりたかったのは。人を、護れる人だった。
そうだった、はずだ。
なのに、どうして……。
何度も、橘の頭の中でその言葉が反響した。
そして彼が視線を落とした、その先には――。
* * *
「さあ、早くしろ、桐谷!」
笑顔交じりの表情で、ショベルカーに向かって声を張る佐々木。
ところが、ショベルカーはぴくりとも動かない。その様子に違和感を覚えたのか、佐々木は眉を顰めた。
「どうしたんだ、桐谷?」
名を呼ばれた桐谷は振り返り、単調な声を出す。
「……壊したいのは、山々なんすけど」
彼の指差す先は、心屋だった。
そして、その心屋の前には佐々木を睨みつけながら佇む、橘の姿。まるで、ショベルカーに真正面から対峙しようとでもしているかのような。
「……橘、何をしている」
「…………」
「そこをどけ、邪魔だ!」
だんだんと、苛立ちが大きくなっていく佐々木。憎悪と怒りの入り混じった声に、小夜子は思わず肩をびくつかせる。
対して橘は、まっすぐに佐々木を見つめていた。
「嫌です」
静かだが、芯のある声だった。
「帰ってください。正直言って……邪魔なのは、あなたのほうです」
彼の黒髪から、雨が伝って落ちていく。
佐々木はというと、橘が自分に反抗してくるとは思わなかったのだろう、目を丸くし、目の前の存在に息を呑んでいた。それでも、薄ら笑いを浮かべてはいる。しかし、
「……私に楯突いて、どうなるかわかっているのか?」
先ほどよりは余裕が無さそうだ。
「お前一人の命など、どうとでもできるんだぞ!」
小夜子は、橘に初めて会った日の、彼の言葉を思い出す。
「今までの佐々木に反抗した者は皆、どうなっているかわからない」
と。そう言ったのは彼だ。
しかし、その彼が今まさに、佐々木に反抗しようとしているのだ――。
「……自分の信条、あんたみたいのに曲げられるくらいなら……構いませんよ、それで」
橘のこの意を決したような一言に、奏一郎は「ほう」と言って微笑み、一方の佐々木はフンと息を吐く。
そして踵を返すと、桐谷とツナギの男に小さく呟いた。
「……今日は撤収だ」
「合点承知でーす……」
桐谷は鼻歌交じりに、ショベルカーを駆使して先に行ってしまった。
佐々木もベンツに乗り込み、ツナギの男が運転席に着く。
さっさと発進してくれないものか、と小夜子は願うのだが、そうさせてくれないのが佐々木だ。
車のウィンドウを下げ、橘を見下したように笑う。
「楽しみにしていろ、橘! お前への処分は、直にわかるだろうよ!」
そう言われた橘も、もう佐々木を見ようとはしない。
そんな中――コン、コンという軽快なノックの音は、雨中でも目立った。
「さーさーきーさん♪」
奏一郎だった。いつの間に移動したのか、佐々木のベンツの車体にノックをし続けている。笑顔で歌うように自分の名を呼ぶので、佐々木は眉間に皺を寄せる。
しつこいノックに、苛立ちを抑えきれぬ表情でさらにウィンドウを下げた。
否、〝下げてしまった”。
「……道中、事故などにお気をつけて」
と、奏一郎は笑顔で囁く。
その笑顔は、二度と出られない洞窟に足を踏み入れてしまったような、妙な悪寒を走らせる。しかし、そんな悪寒すらも気にも留めぬとばかりに、またも佐々木はフンと鼻を鳴らすのだった。
「……出せ!」
ツナギの男にそう命じると、ウィンドウは車の発進とほぼ同時に閉まっていった。
ベンツが完全に視界から消え去っていった今、心屋の前には、奏一郎、小夜子、橘の三人だけが取り残された。
雨に濡れる橘は、先ほどの立ち位置からぴくりとも動かない。
小夜子はおずおずと、彼に近寄った。そうすると自動的に、心屋の軒先に辿り着く。
「……橘さん、なんでこんなことを? 本当に、あの人から何をされるか……」
小夜子はそう言いかけて、すぐに口を噤んだ。どこからか、鳴き声が聴こえたのだ。あたりを見渡してみると、そこには、奏一郎が『活用する』と言っていた分の、段ボール箱。
その、中には。
「……ね、猫?」
猫が丸まっていた。軒先にいるため、雨に濡れてはいないはずなのに、微かにその体は震え、辛そうな鳴き声を上げる。小夜子は思いがけないその状況に、胸が締め付けられた。
「野良猫、ですかね。なんでこんな所に……?」
小夜子の声につられ、奏一郎も段ボール箱を覗く。
「おや、あんずじゃないか」
聞き慣れた声に反応したのか、あんずの耳がぴくりと反応する。
「奏一郎さん。この猫、知ってるんですか?」
「うん、彼女」
奏一郎のこの一言に、小夜子が頬を引きつらせたのは言うまでもない。
うーん、と言ってあんずの様子を見る奏一郎。
「あんずはどうやら分娩しているようだね。手を出したらダメだからね」
「え!? ってことは、もうすぐ赤ちゃんが生まれるんですか!?」
奏一郎は、橘に振り返る。彼は猫になど目もくれず、ただ茫然としているかのようだ。
「……なるほどな? あんずがこの中にいるのを見て、あのショベルカーを必死になって止めたわけか」
「……“お前らのため”じゃなくて、悪かったな」
少々、自嘲的に返す彼。
そんな彼に奏一郎は微笑みかけ、番傘をかざした。
「……本当にそう?」
奏一郎の浮かべる笑みを、橘は不思議そうに見つめる。
「たちのきくん、君は言ったな。『野良猫と人間じゃ、命の重みが違いすぎる』と。……にもかかわらず、君は自分の命ではなく、猫の命を選んだ。矛盾しているじゃないか? ……だから、君が今、こんなことをしたのは」
そう、橘はわからなかった。
自分が何をしているのか、何がしたいのか。なにがしたくて、ここにいるのか。
何のために、歩いているのか――。
奏一郎は、笑って続けた。
「理屈抜きに、自分よりも目の前の猫や人間のほうが大事で、好きで、たまらないから、だろう?」
雨が、弱まった、気がした。
まるで足元から徐々に、陽光が降り注ぐようだった――。
「やはり優しいな、君は。ね、さよもそう思う? 思うよね?」
「お、思いますけど。そ、そんな呑気なこと言ってていいんですか?」
「え、何で?」
奏一郎が小首を傾げるので、小夜子は目を丸くする。彼は現状を理解できていないのだと、そう思って。
「だ、だってあんな人に命狙われてるんですよ……! 橘さんの命が危険です!」
「あっはっは。たしかにそれは大変だー」
お呑気にへらへらと笑う彼。本当に、先ほどまでの酷薄な笑みは幻だったんじゃないかと疑う。
そして今更ながら、橘は自らの命の危機を思い出したのか項垂れていた。
「あー……そうだった。忘れてた……忘れていた。俺は阿呆なのか……!?」
飛びきりの笑顔の奏一郎からは、菩薩のような後光が見える。菩薩は優しく橘の肩を叩いた。
「大丈夫。いざとなったら、心屋でかくまってあげるから」
「こんなところに世話になんてなるか!」
「……さよ、振られちゃったよ」
菩薩から一転、肩をすくめる奏一郎は、まるで捨て犬のように瞳を潤ませる。碧く揺らぐそれに、小夜子はしばし見とれた。
「……まあ、これだけの荷物を出されちゃったわけだし、早急に片付けるとしよう。手伝ってくれるね、たちのきくん?」
「ああ、もう何だってやってやる。その前に俺は橘だ!」
自棄気味なのか、乱暴な言い方の橘。
ブルーシートをどかしてみると、やはり少しだけ、雨の侵入を許してしまったようである。家具のほとんどが、濡れに濡れていた。
『桐谷建設』と印字されているそのブルーシートは、橘の手によって丁寧に畳まれていった。
「タオルを探してくる」
それだけ言うと、そそくさと家の中に入っていく彼。
「あ、案内します!」
――……本当に、どこまでいい人なんだろう、この人。……って、あれ? 奏一郎さん?
ブルーシートの中から、奏一郎は籠に入れられた店の商品を探し当てたらしく、愛おしげにそれらを抱きしめていた。籠からは、ぽたぽたと雨水が垂れている。粗雑な扱われ方をしたのか、相当、雨に濡れてしまったようだ。
「……汚らわしい手で触れられて、可哀想に」
彼が、雨曝しになった商品をあまりにも慈しむように抱きしめるので、小夜子は商品たちが泣いているような錯覚に陥った。
そして、こぼす言葉に込められたのは、静かな怒り――。
「……こうなったら……もう、武力行使しかないか」
雨に濡れた、せいだろうか。唐突に、何の前触れもなく身震いがしたのは。
「……さよ?」
名を呼ばれ、はっと目を見開くと、目の前には奏一郎。そこにはまだどこか、冷たさを帯びた笑みが湛えられている。
「どうした?」
「……あ、の……」
自分でも目が泳いでいるのがわかる。小夜子は咄嗟に、人差し指を空に向けた。
「雨……! ……止みそうです、ね」
はぐらかした、つもり。笑みが引きつっているのは自覚していた。すると、意外なことに、彼も素直にそっと、空を見上げ始める。
「……本当だ」
雲間から現れた細い光の筋は、徐々にいくつもの束にもなって、街に行き届いていく。淡い色合いの空は、その光についていくように広がっていった。
「太陽の光は苦手だが、雨上がりの光というのはいいな。……夜明けに、少しだけ似ている」
* * *
元々、置いてあった家具は少ない。一時間もしないうちに、店の前はいつもどおりの様相を見せる。
「あっという間に終わったなぁ」
にこにこと微笑む奏一郎はご機嫌だ。
「ですね……。ですが……私たちもびしょびしょです……」
「ふむ……まあ、いいじゃないか? 雨の日くらい、雨に濡れたって」
あっけらかんと言い放つ奏一郎。「意味がわからん」と、橘が小さくつっこみを入れた。
小夜子と橘は茶の間に座り込み、奏一郎に手渡されたタオルに顔をうずめる。奏一郎は別の着物に着替えると、橘にも着物を貸した。濃紺の着物が、彼はよく似合った。
小夜子はまだしも、橘の雨の濡れ具合と言ったらすごかった。ハンガーにかかっているスーツには、濡れていない部分などない。
「待っててくれ。今、お茶を出そう」
奏一郎の台詞に気が緩んだのか二人は、ほぼ同時にくしゃみを出す。
「っくしゅ」
「……ふむ、風邪に効くものも出したほうがよさそうだな」
そう呟いて、奏一郎は台所に消えた。
橘と二人きりになり、小夜子は彼と何を話せばいいのかわからなくなった。
彼はこれから、どうなるのだろう。
もし、本当に佐々木が彼を処理しようとしているなら……それは、自分たちのせいなのではないか。小夜子はそう思ってしまう。
『ありがとうございます』なんて、簡単には言えない。
「……やはり、あいつは不思議……だな」
静かに口を開いたのは彼だった。彼の言葉に耳を傾ける。ここで言う『あいつ』とは、奏一郎を指すのだろうことは彼の視線でよくわかった。
「不思議……ですか?」
「ああ。あいつは昨日、こう言っていた。『君は君の仕事をすればいい』と。……俺は、『もう自分のことは放っておけ』という意味かと思っていたんだが……」
「……違いましたか?」
「先ほど俺が取った行動のことを言っていたのかもな。……俺は、『自分の仕事』を忘れていたのかもしれない。自分が、何のために働こうと思ったのか……」
――人間が好きで――そう、ずばりと彼は、言い当てた。あの言葉を聞いた瞬間に、『自分の仕事』が、日に照らされたようにはっきりと見えた気がした。
橘はそう言って、髪をタオルで乱暴に拭った。
「……思い出した、んですね?」
小夜子が問うと、珍しく穏やかな表情を見せる彼。それに自分がつられていくのが、小夜子にはわかった。
「……ああ」
「……よかったです」
彼の気持ちが、少しだけわかる気がした。
自分の居場所が見つかったとき、人はこんな表情をする。
――きっと、ここ最近、私もこんな表情をしているんだろうな……。
「お待たせしたな」
奏一郎が台所からいそいそと現れる。彼の運ぶお盆に乗っているものを見て、小夜子は目を見張った。そんな彼女を見て、奏一郎も橘もきょとんとする。
「どうした、さよ? 林檎がどうかしたのか?」
今日一日で、何度発したかわからない単語――林檎――の実物が、そこにはあった。
「えーと……なんで林檎なんですか?」
「うむ。林檎は風邪に効くからな。お腹が冷えないように、生姜入りの紅茶も一緒に飲むといい」
ちゃぶ台に乗せられた林檎を見て、小夜子は「うーん……?」と首を傾げた。
――……林檎、かあ。……楠木さんが言ってたのって、まさかこのこと? いや、でも……まさか。そんなはずないのに。
……楠木さんって……本当に、奏一郎さんみたい。