第十五章:なつくもの ―如月・下旬― 其の十弐
「でもそうか。彼女の想いは実ることはなかったかぁ。あどばいすをした身としては、少し心苦しいものがあるね」
台詞の響きと表情が噛み合わない。あまりに、似つかわしくない。なおも笑みを浮かべたままだ。
桐谷にはわからない。奏一郎が何を言っているのか理解ができない。だって、おかしいじゃないか。
誰かに相談なんてできるはずがないじゃないか。兄のことを好きだなんて、誰にも言えるわけがないじゃないか。
それなのにどうして目の前にいるこの男は――あたかも「全て知っている」かのように話すのだ?
冷や汗がたらり、背中を伝う。悪寒と言っても良いかもしれない。何を考えているか得体の知れない相手に出会すと、人はこんなにも簡単に混乱してしまえるものなのだ。
けれども、また。疑問はどこからともなく湧いて出る。沸々と、沸いて出る。
「……“あの子”に、何を言ったの」
気が付けばゆらり、立ち上がって。一歩、また一歩。きょとんとした表情の男に近付く。湯呑みの割れた音が足元から――否。どこか遠くに、聴こえる。
「うーん、もう“あの子”って誤魔化すの、止さないか? いいじゃない、名前で呼ぼうよ。お互いに見知った子なんだから――」
「静音に……何を言った!? 言えよ! 早く!!」
胸座を掴み、碧眼を引き寄せて。乾いた無機質なそれが数回瞬きするのを見届け。彼の口が開くのを、桐谷は待った。
ふわり、細い白髪が揺れている。
「……どうしてそんなに、そんなことを気にするの? だってもう彼女のこと、大事だと思っていないんじゃないの?」
鏡など見なくても、わかる。きっと己の目は今、西に東に泳いでいるのだと。
「いや、違うか。より正確には……もう既に、ずっと前に傷付けてしまったから。壊してしまったから。だからもう、大事にできないって思っているんでしょう?」
探るような口吻ではなかった。碧眼はまっすぐに桐谷の目を見つめ……またしても、事も無げに微笑む。
細められたそれに映る己の姿が……あまりに間の抜けた表情をしているのを、遥か彼方の自分が冷静に見つめていた。
なぜ、なんで。どうしてそんなことを知っている。どうしてそんなことがわかるのだ。
疑問は消えない。増えては溜まり、溜まっては増え。消化なんて間に合わない。そんなことを、この男は許してくれない。
胸座を掴んでいた左手は自然と、徐々に緩んでいった。解放されたところで、彼は着崩れたらしい共襟を緩慢な所作で直していく。懐から袱紗をそっと広げながら、桐谷の横を通り過ぎると――床に、そっと膝を立てる。その傍らには、無惨にも砕け散った湯呑みの破片。
「……静音ちゃんが何を言ったか、僕が彼女に何と言ったか、なんて。さして大きな問題じゃないのさ。……彼女は選んだ。君を想い続ける道を選んだのさ。きっと、並大抵の覚悟ではないだろうけれどね」
誰からも祝福されない。己を傷つけるだけの、傷だらけになるだけの。誰も喜ばない。何の得にもならない――。
「……それはもしかしたら、時に。いつ踏んでしまうとも知れない、破片が敷き詰められた道かもしれないんだから」
カチャリ、カチャリと音を立て。一つ一つ丁寧に拾い上げられるそれ。夕闇に染まる背景の中でもキラリと光る。その鋭い光は、まるで刃物のよう。
「それでも、たとえそれで傷だらけになったとしても。それでもいいって、思ったんだろうね」
桐谷には、やはりわからなかった。
「……どうして……なんだろう」
――幸せになって、ほしいのに。
「どうしてよりにもよって、俺だったんだ……」
――幸せにしてやれない相手を、どうして選んだりしたんだ?
カチャリ、カチャリと音を立て。破片の全ては袱紗に包まれた。立ち上がり、振り返る奏一郎。
「……一緒にいたい人を。それも永く共に生きていく人を選ぶ時。人は、それをどういう基準で選ぶの?」
彼は慈しむように袱紗をひと撫ですると、商品棚にそっと鎮座させる。
「美醜、高収入かどうかかな? あるいは趣味が合うとか、性格とか? ……要素はどうあれ、『自分が幸せになれる相手』を人は選びがちだよね。そんなの、いつ揺らいでしまうかも知れないのに」
ロッキングチェアに腰かけると、まるで揺りかごの中にいるかのようにたゆたい始めた。体の傾きに少し遅れて、白い髪が揺れている。
「でも、そうじゃなかった。静音ちゃんは、そうじゃなかった。……彼女が選んだのは、『一緒に幸せになりたい相手』だった」
そしてそれが、兄である君だった。難しい話じゃない。ただ、それだけ。
ぽつり、呟く。まるで……「ついで」のように。
それからはもう、沈黙を貫くだけだった。膝に飛び乗ってきた成猫にふっと頬を綻ばせ、ゆっくりとロッキングチェアを揺らしている。
突如既視感に襲われる桐谷。そう、先ほどここを訪れた時と同じ光景が、今まさに彼の目の前に広がっていたのだ。
何ら変わらない――つい先ほど交わされた会話も、桐谷が掴みかかったことも、まるで彼にとっては些末のことのよう。取るに足らない、取り立てて珍しいことでもない、ただの穏やかな日常のよう……。
湯呑みを割ってごめんなさい、だとか。乱暴にしてごめんなさい、だとか。きっと謝るべきなのだろうに。不思議と言葉は出てこない。
何故なら奏一郎は、決して怒ってはいないのだろうことが桐谷にはわかるから。きっと謝罪の言葉は意味を成さない。
水面に石を投げ入れれば自然と波紋が広がって、少なからずや音を立て、波も起きるものなのだろうが……奏一郎には、それがない。
凍てついた氷上にだって、石を投げ入れれば音も立てるし、傷くらいは付くだろうが。奏一郎にはそれもない。
石を受け止め、ずぶずぶと。音もなく沈めてしまえる。跡も残さず、そこで何事も起きなかったかのように振る舞える――そうまるで、泥のように。
「……心屋さん。俺、帰るね」
謝罪の気配の無い台詞にも、
「そうか? もう辺りも暗い、気を付けるといいよ」
ああ、やはり。立腹することも眉を動かすこともなく、気持ちよく見送りの言葉を返してくる。
振り返ってみれば、たしかに闇色に染め上げられた空が広がっていた。ぽつぽつと、遠く彼方の高層ビルに灯りが点っているのが見える。
「桐谷くん」
名を呼ばれ。背後の奏一郎を見れば、彼はたおやかな笑みそのままに、こちらを見つめていた。
真昼の空色と、視線がかち合う。
「人は壊したモノを大事にする方法なんてできないって、わからないって僕は言ったけど……人と人の繋がりや関係は、モノじゃないから。時間はかかるかもしれないけれどね、いくらでもやり直しはきくと思うよ」
空色を、瞼の裏に隠して。
「君たちはまだまだ、若いんだから」
忘れないでね、と付け加えると奏一郎はひらひらと手を振る。
本当に不可思議な人だな、と能天気な感想を呟く自分がいる一方で。いやいや、やっぱり色々おかしいでしょ、と冷静な自分もいる。
けれど、きっと今考えるべきは……彼のことではないのだろう。
店を出て一番に感じたのは、吹き荒ぶ風の凄まじい轟音だった。鼓膜に響くのは鳥肌を誘う笛の音。二月ももう終わろうというのに、まるで冬という季節が抵抗をしているようだ。人々が先に進むのを、どうにか防ごうとしているかのような。
そこにふらふらと身を投じ、背中がだんだんと小さくなっていく桐谷を見つめるのは、奏一郎ではなく。暗がりの中の褐色の瞳だった。
「…………奏一郎さん、ただいまです」
おずおずと店先を覗くと、奏一郎はにこりと微笑みを返す。目尻に浅い皺を作って、それはもう嬉しそうに。
「おかえりなさい、さよ。今日は風が強いみたいだね」
あんずがひらり、奏一郎の膝から降りる。恐らく、彼が立ち上がるのを予め察知したのだろう。
「ほら、髪の毛が四方八方に遊んでいるよ」
風で盛りに盛り上がった髪の束を、つんつん、と優しく引っ張られるので、小夜子は思わず頬を赤らめてしまう。
「そ、そんなことよりも……! 奏一郎さん、怪我はしてないですか!? ごめんなさい……私、見ていることしかできなくて!」
「ああ、いやいや。見ての通り、心配ご無用だよ」
そう言って、奏一郎は微笑んでみせた。
彼が無事だったことはもちろん、いつから聴いていたのかと咎められることもなかったので、小夜子は少しほっとしてしまう。きっと彼のことだ。聞かれていようが支障はないと――きっともう、わかっているのだ。
ふと、商品棚を見やる。
ちょこんと居座っている紫色の袱紗。今朝までは無かったはずのそれが、ずっと昔からそこにいたかのような存在感を醸し出しているのだから不思議だ。
「湯呑み……割れちゃったんですね。これ、どうしましょうか? 明日は燃えないごみの日ですから捨ててしまいましょうか?」
「うーん……」
天井を見つめる碧の瞳。あ、まただ。小夜子は心の中でそう呟いた。やがてぱちりと、瞬き一つ。名案を思い付いたと言わんばかりに彼は微笑んでみせた。
「角を削って箸置きにするとしよう。きっと渋いのが出来上がると思うんだー」
楽天的な笑みは、つい先ほどまで乱闘一歩手前までいった人のそれとは思えない。
「まあ、それはまた今度にするとして。お夕飯にしようか。今日は鳥団子のお鍋にしたんだ」
店のシャッターを閉め、夜を閉じ込めて。ふわりとした表情のままに彼は茶の間へと消えていった。
「桐谷先輩と、仲直りはできそうですか?」
「どうだろうね。まあ、今回の件は恐らく、僕が全面的に悪いのだろうから。向こうが許してくれたら、それが仲直りってことになるのだろうね」
飄々とした声色に、少し小夜子はむっとしてしまう。
「……仲直りには許す、許さない以前に反省が要るんですよ、奏一郎さん」
ひょこり、茶の間から顔を出して。奏一郎は微笑んだ。
「さよも、そんな風に怒ることってあるんだね」
珍しいものを見たとでも言いたげに、あまりにも無邪気な顔でそう言うので。時々、本当に時々、小夜子は奏一郎に呆れてしまう。そしてその時が今だった。けれども。
「ダメだね。僕にはやっぱり、まだ“一つ”足りないみたいだ」
儚げにぽつり、意味深長なことを呟いて。暖簾の奥に引っ込む奏一郎。その表情がどの感情から滲み出たものなのか、どうしても気になって。膨らんだ呆れの感情も一気に萎えてしまう。
きっと訊いたところで、答えてくれる彼ではないが。
もう少し、静音と桐谷に関する話を聞けたらと思っていたのだが……小夜子だって、さすがに学んだ。もう暫くは、奏一郎から彼らの話を引き出すことはできないだろう。
一度話が済んでしまえば、もうそこで終わり。もしかしたら、話を掘り返されるのが好きではないのかもしれない。
では、他に誰に訊けるというのか――……答えは、一つしか無くなってくる。




